鉄道事故の悲劇から始まる堅牢で正確な時を告げる時計作りへの挑戦
ボール ウォッチの歴史は、アメリカで起こった鉄道事故が引き金となり、切り開かれた。スイスに拠点を移した今も“苛酷な環境下で正確な時を告げる”という時計作りの精神を守り、革新的なモデルを作り続けている。
1891年4月19日、速達郵便列車「No.14」が、オハイオ州キプトンに向けて出発。一方、クリーブランドから25マイルの距離のエリリアで待機する「アコモデーション号」の車掌は、No.14をキプトンで先に通すよう指示を受けていた。
その後、アコモデーション号はエリリアを出発。車掌はポケットから時計を一度も取り出さず、また、機関士が持っていた時計は4分遅れ。この時間の擦れが発端となり、No.14とアコモーデション号はキプトンで衝突、大破する事故が勃発。両列車の機関士と6名の乗務員が命を落とす大惨事となった。
その事故調査に乗り出したのが、後にボールウォッチを創設することになるウェブスター・クレイ・ボールだった。氏は、車掌や機関士が精度の低い時計を使用していることを突き詰めるとともに、都市や駅における“時間”への問題を発見した。
そして“安全な運行には業務に耐える丈夫で正確な時計は不可欠”と気づき、鉄道時計の基準を定めて、メーカーに時計制作を依頼、販売に乗り出すことに。
“キプトンの悲劇”と呼ばれるこの大事故は、時を告げる時計の重要性を認識させ、アメリカの鉄道と時計産業は、発展を遂げていくきっかけとなる。その後、ボールはキプトンの悲劇を境に、鉄道時計の基準を厳格に定めて品質、精度の向上を図り、鉄道時計のスタンダードを確立。
ハミルトン、エルジン、ウォルサムといったブランドにムーブメントの製造を委ねたものの、鉄道時計の厳格な基準をクリアしたモデルを次々とリリース。アメリカで最も信頼される時計ブランドとして成長を遂げることになる。
現在、ボール ウォッチはクリーブランドを離れ、スイスのラ・ショー・ド・フォンに拠点を移したものの、100年以上も前に掲げた“あらゆる過酷な環境のもとで、正確に時を告げる”という精神を忘れずに、革新的な技術を盛り込んだタイムピースを作り続けている。
1879年に宝飾店から始まる、創設者のウェブスター C.ボール。1883年、ワシントンD.C.から送られる時報を使い、クリーブランドに正確な時間を告知。氏が定める指針が、後に厳格な鉄道時計の基準となった
“キプトンの悲劇”から6年後の1897年、宝飾店を「ボール鉄道標準時計株式会社」に改組。クリーブランドの目抜き通りに本社を構え、本格的に鉄道時計の製造、販売を行い、その普及に尽力した
1900年代初期に製造されたボール製の鉄道時計。鉄道車掌団体に向けて開発されたモデルで、“シリーズⅧ”の愛称で親しまれた。18Kゴールドを使ったスクリューバックケースが採用された
宝飾店の前には、ワシントンD.C.の標準時を知らせる街路時計塔を設置。鉄道時計の広告の効果とともに、“ボール・タイム”と呼ばれた時計塔は、正確な時刻を知らせるシンボルとして広まっていく
鉄道時計で目指した厳格な時計作りの精神は、現行モデルにも脈々と受け継がれている。「クリーブランド エクスプレス」(写真上・¥221,400)、「トレインマスター キャノンボールⅡ」(写真下・¥399,600)は、1900年代に鉄道時計を手掛けた、同社の信念を感じさせるモデルだ
Styling/Eiji Ishikawa Photo/Takeshi Hoshi Text/Ryo Ohtake(Horlogerie)
2015年9月「HORLOGERIE]本誌より引用(転載)