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【北極冒険の時間と思考】“アボリジニの歴史観を アカデミックに一方的に解釈しようとした 学者たちに警鐘を鳴らした保苅実の書作をご紹介。その読み解きを冒険行為まで広げた 荻田泰永が考える冒険の役割とは?”

VOL.6 アボリジニの歴史観に見る“尊重”という危険な思い込み

先日、ある書籍の出版イベントに登壇した。その本は、2004年に32歳の若さで亡くなった、歴史学者の保苅実(ホカリ ミノル)の著作集である。保苅実は、生前に日本語での単著を一冊だけ遺した。「ラディカル・オーラル・ヒストリー」というタイトルのその本は、保苅が学生時代から足繁く通った、オーストラリアのアボリジニの歴史観をつぶさに検証した名著として知られ、その独特の研究内容は今でも歴史学のジャンルを超えて、多様な分野で読み継がれている。

保苅は、歴史学者主体で検証される歴史学の立場に疑問を感じ、徹底的にアボリジニの視座に立とうと試みた。その姿勢を表す一文が「ラディカル・オーラル・ヒストリー」にある。

アボリジニが語る話には、アカデミックな基準からすれば「荒唐無稽な神話」と思われる話が多い。例えば、大雨による洪水が起きたのは、大蛇が暴れたからだ、という話を多くの学者は「事実ではないが重要な語り」であると、排除しない代わりに「掬いあげて尊重」しようとする。大河の氾濫を大蛇に喩えているのだろう、そうアカデミックな文脈の中に回収しようとする尊重の姿勢である。保苅はその科学者の姿勢に疑問を呈し、こう書く。

――「尊重」という名の包摂は、結局のところ巧妙な排除なんじゃないでしょうか。これを読んだ時、私には「多様性」という言葉が思い当たった。
多様性を認めましょう、という言葉があるが、その言葉とは、多様性を外側から眺めている非当事者の視座ではないか。私はそう感じてきた。例えば、警察が道路使用許可を認める、という時に、警察は道路使用する側にはいない。多様性を認めるということは、認める主体は多様性側には. 立っていないことになる。

多様性という言葉の外側に立っている非当事者など、この世にいるのだろうか。誰しもが、多様な存在として当事者である。多様ではなく、同一性が担保された人間などこの世にいるわけがない。その視座に立てば、多様性は認めるものではなく、自明であるという事実に気付くはずだ。

私たちが行う「冒険」の、大きな一つの効果として、多様な視座の獲得がある。多様な視座とは、向かい合う対象に、自らが主体的に移動して違う側面から対象を眺める態度のことだ。富士山の形を問われ、多くの人は見上げる視座で八の字型を答えるが、宇宙から見下ろせば地上に広がる円形である。

どちらも正解だ。しかし、人は無自覚に自分の視座に思考が固着し、その人数が多いものを「常識」と呼ぶ。その常識の中で安心を獲得しようとするが、あえて常識という視座から離れ、主体的に別の視座に立つ試みが冒険である。

この時、自らが主体的に動くのではなく、対象を動かして別の側面を見ようとする姿勢も存在する。それが、保苅の言う「尊重」の姿勢だ。アカデミックな文脈では、アボリジニの語りを事実ではないもの、あるいは比喩として尊重する。それは、常に主体は自分であることを手放さず、アボリジニを客体視し続ける。自分の視座は動かさず、対象を自分の動かしたいように動かし、見たいところを掬い上げる。

自然を前にする冒険では、自分という主体など無に等しい。主体を手放し、客体である対象との同一化を図ること。その果てに、再び自らの主体による視座に戻った時、世界はそれまで見たこのない広がりを見せてくれる。そこで見た世界を、社会に対して知らせていくこと。それが冒険の役割であり、保苅実が若い命を燃やして伝えようとしたことなのだと思う。


Yasunaga Ogita
日本で唯一の北極冒険家。カナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険行を実施。2000年より2019年まで20年間で16回の北極行を経験し、北極圏各地を10000km以上も移動する。世界有数の北極冒険キャリアを持ち、国内外からのメディアからも注目される。2018年1月5日(現地時間)には日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功。北極での経験を生かし、海洋研究開発機構、国立極地研究所、大学等の研究者とも交流を持ち、共同研究も実施。現在は神奈川県大和市に、旅や冒険をテーマとした本を揃える「冒険研究所書店」も経営する。

2024年6月「HORLOGERIE]本誌より引用(転載)

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