宇佐見りん『かか』『推し、燃ゆ』書評:彼女たちによる彼女たち自身の生まれなおしについて

 高橋たか子にはストレートにシスターフッドものといえるであろう「共生空間」のような作品もあるが、他の多くは自身のミソジニーのユニークな発露ともいうべき――負のシスターフッドとでも呼べば伝わりやすいだろうか――自身が女という性であることへの嫌悪を、他の女への嫌悪と無意識のなかで呼びあいながら加害しあうさまを執拗に描いている『ロンリーウーマン』や『空の果てまで』に代表される作品群がある。(略)
けれど、わたしはここでは『誘惑者』の三人関係だけはシスターフッドと呼ぶことを、戦略的に選ばないでおこうと思う。シスターフッドの先にあるもの――シスターフッド、女性同士の連帯を示し、あるいは負の連帯をも肯定的に読みかえるポップな戦略は女性たちを救うだろう、けれどそれを狡賢い訳知り顔の〈男性批評家〉たちはまた悪用するだろう、だからその先が必要だ、『誘惑者』にはそのポテンシャルがある。――『誘惑のために』瀬戸夏子

瀬戸夏子は「文藝」2020年秋号「特集1 覚醒するシスターフッド」において、『誘惑のために』と題した、そう長くはないテクストを寄せた。

このテクストにおいて瀬戸は、フランソワーズ・サガンの《女性特有の文体はないと思いますが、女性特有の文学はあると言えるかもしれません。というのは、多くの女流作家は、自分たちが女性であると意識しながら書いていて、女性であることを主張したり、あるいは否定したりしているからです》という言葉を冒頭に掲げ、ひらひらと、幾人かの作家や作品へつぎからつぎに思いを馳せる。
高橋たか子の小説『誘惑者』をめぐる繊細な論考、その高橋たか子が夫・高橋和巳の死後に傷つき気がついたホモソーシャル界隈について、高橋たか子と澁澤龍彦と矢川澄子の三角関係からほどけた糸の繋がっていくその先、さらにその先、さらにそのもっと先へ――。

水面に落ちた一点の小説『誘惑者』という滴からみるみるひろがってゆく波紋のようなこのシスターフッド論考はあまりにも見事で、わたしはきっと生涯本を読み続けるかぎりこの『誘惑のために』に書かれた瀬戸の言葉を忘れることはないだろうと思う。

『誘惑のために』は奇妙な魅力をもつテクストだ。断片的かつ跳躍的であるように読めながら、けれど同じ水面に重なる〈女〉という現象を、さまざまな作家や作品を重層的に重ねることによって、連続的に組み立ててゆく。
《女の批評家が女の作品を評するときは、必ず「女性であることを主張したり、あるいは否定したりしている」意識の揺れをわかったふりをして受け流したり、批評者自身の主張・否定と噛みあわせたり、あるいは意図的に無視したりしている筈だ》と、瀬戸は『誘惑のために』を読む者たちのその首に鋭い切っ先を押し当てる。
あるいは、《書くという選択自体が解釈であり、解釈の解釈が〈女〉の批評だった》とも言いながら、にっこりと笑みを浮かべ、透明な手でこちらの背を押し、深い深い穴につき落とそうともする。

ところで、この『誘惑のために』という凄まじいテクストが掲載された同号には、文藝賞受賞者・宇佐見りんのデビュー第二作目である『推し、燃ゆ』も掲載されていた。周知のように、後に2020年下半期の第164回芥川龍之介賞を受賞する小説である。

瀬戸夏子と宇佐見りんという二人の書き手が同じ号にテクストを寄せていて、それを併置して読むことができたという事実は、いち一般読者であるわたしにとっては単なる偶然でしかない。
にもかかわらず、彼女たちのテクストを併置して読んでしまった後の世界にいるこの今のわたしは、瀬戸夏子が高橋たか子から森茉莉へ波紋をひろげた『誘惑のために』のテクストそのもののように、瀬戸夏子から宇佐見りんへと読みの波紋を重ねてゆかずにはいられない。

宇佐見りんのデビュー作であり三島由紀夫賞受賞作である『かか』、そして第二作目であり芥川龍之介賞受賞作である『推し、燃ゆ』の二作のみが現在発表されている彼女の小説のすべてであるが、両作には共通点が多く、というよりも何かあるひとつの大きな物語の魂が作者のなかに存在し、それを『かか』『推し、燃ゆ』の二作が両輪となって――互いが描ききれなかった側面を補い合いながら――目指しているのではないか、という読み心地がした。

『かか』は、浴槽の湯にとろけながら浮かぶ経血を金魚だと思って飼っていた、幼い頃の記憶から物語がひらかれる。白いゆびのあいだをするんと抜けていってしまうその金魚を主人公のうーちゃんはなんとか掬いあげて、同居する従姉に見せびらかしにいくと、カッとなった従姉に力ではたかれる。
そんな強烈な赤い記憶をはじめとして、剃毛、従姉の男関係、若い女同士のネットコミュニケーション、家を離れた父から浴びせられるねっとりした視線、母の子宮にできた腫瘍の手術などあらゆる箇所に女をめぐる光景が練り込まれつつ、ナラティブな物語は娘・うーちゃんと母・かかの関係に焦点がしぼられてゆく。
父(とと)との関係の破綻をきっかけに精神を病み、度々気のふれた行動を起こしては家族に波乱を与えるようになったかか。
そんなかかと共依存関係だった娘のうーちゃんは、かかや従姉の明子、死んでしまった伯母で明子の母である夕子、祖母といった存在が纏い発する女の要素に押し潰され、やがて、発狂の頻度を上げていく最愛のかかを《産んでやりたい、産んでイチから育ててやりたい。そいしたらきっと助けてやれたのです、そいすれば間違いでうーちゃんなんかを産んじまわないようにしつこく言いつけて、あかぼうみたいにきれいなまま、守り抜いてあげ》たいと思うようになる。
そうして、かかの子宮の手術の日、かかを〈生み直す〉ために熊野詣の地・和歌山の新宮へと、うーちゃんはひとり旅に出る。

『推し、燃ゆ』は、主人公・あかりが、自分の推しアイドルである上野真幸が女性ファンを殴り炎上するニュースを、朝一にネット越しで知るところから幕が上がる。
SNSを中心として推しはみるみる燃えていくが、四歳の頃にピーターパンの舞台で出逢ったのをきっかけに長年こつこつと推しを推しつづけてきたあかりは、まるで少し離れたところから立てひざに頬杖を突いて、パチパチと爆ぜる焚き火をぼんやり眺めているかのごとく、冷静だ。
画面越しの世界で推しが燃えていく一方で、現実世界のあかりの日々はそれはそれとして続いていく。
生来なにごとに対しても不器用で、つねにあたまが靄がかったように停止してしまうので勉強も不得手、自分の思考のルートが分断されたりすると途端に物忘れやミスを連発してしまうため居酒屋バイトでさえ難しい。身体も思うように動かない。なにもかもができない。なにもかもができないあまりに高校は中退、進学も就職もわからない宙ぶらりんのあかりは、家族から離れ、生活費をもらいながら、死んだ祖母の家で一旦ひとりで暮らすこととなる。
祖母の家に閉じこもるあかりの生活はさらに推しを推すこと・推しがこの世に在るということに集約され、そのほかのすべてが削ぎ落とされていく。推しがいるから、自分がどれだけ駄目な人間であっても生き永らえる。
推しがネットで炎上してもなおあかりが冷静でいられるのは、ただただそこに推しがいて、推しが自分の背骨として凜と在るからなのだった。

ざっくりと捉えてみれば、『かか』『推し、燃ゆ』の両作では、いわゆる〈ポンコツな女〉、あるいは〈足りない女〉がその物語で描かれる。
精神的および身体的に欠陥をもつポンコツ女たち。
宇佐見りんが生み出し描くそんな女たちにどこか肌なじみを憶えるのは、さまざまなインタビューで彼女がもっとも好きであると答えている作家・中上健次の小説に登場する幾多の女たちの影が、宇佐見りん作品のポンコツ女のそのすがたに、深く染み込んでいるように思えるからだろうか。

中上健次の初期から中期にかけての小説では、男女関係がたいてい同じ構図で描かれる。
強靭かつ匂うような性的魅力に溢れる男と、そんな男をやわらかな水のように優しく淫らに受け入れる、何かが欠けている女。粘るような激しいまぐわいをひたすら繰り返すうち、男はそんな女にやがて魂の底まで呑み込まれてしまう。各作品はその関係性の変奏のバリエーションだ。
とりわけ初期の中短篇『水の女』『赫髪』『岬』『蛇淫』『かげろう』『愛獣』等といった作品にはこの男女関係の特徴が顕著に見られる。また、直接的な性行為は伴わないが『浄徳寺ツアー』には、知的障害をもつ女児が物語の鍵として登場する。

中上の生み出すそんな女たちの背後には坂口安吾の白痴女の影が見え隠れもするが、それにしてもどの中上作品においても、何かにつけて足りない雰囲気を帯びた〈ポンコツ女〉たちは、強靭で性的な男たちに組み敷かれつづける。
では中上作品では定型的な差別構造ばかりがそこにあるのかといえばけしてそうではなく、たとえば80年代に入って発表された『千年の愉楽』『日輪の翼』では、もう若くはないオバという老女の存在に焦点があてられ、かつては強靭で性的な男たちに組み敷かれていた〈ポンコツ女〉の視点から、熊野の路地の物語が紡がれる。
けれど、オバたちの瞳だけでは捉えきれなかった、オバたちの言葉だけでは紡ぎきれなかった、組み敷かれつづける世界は今もずっとずっとこの場所に残っているのだ。

中上健次のオバたちの語りからさえもこぼれ落ち、ページの隙間で死んでしまった〈ポンコツ女〉たちの消えた言葉を、オバにさえなることのできなかった〈ポンコツ女〉たち自身の視点から、この世界を現在進行形で語ること。
中上健次という補助線を引いた時に浮かび上がるそれは、宇佐見りん作品のひとつの要素であるように思う。

宇佐見りんの生み出す登場人物たちが現代になってようやく名づけられるようになった病を抱えているのは重要かつ明白ではあるが、しかしながらそこに描かれる登場人物たちの苦しみはけして現代的な〈生きづらさ〉として慰撫されるものでも、敬遠されるものでも、また〈今風〉であると特別視すべきものではなく、中上健次作品で描かれた〈ポンコツ女〉たちからつづく古い血脈であり、つまり現在や過去という時代を逆に超えて普遍であるのかもしれない。

差別によって物語は生まれ、物語によって差別は生まれる。その時に権力者や勝者ではない者の側から語ること。中上健次はひたすら、消えた者や敗者の物語を追求したが、けれどそこには根源的なアポリアがある。
消えた者や敗者の視点から語ることは、けれど物語そのものが孕む根本的な差別構造を助長してしまう。
『推し、燃ゆ』の主人公であるあかりは、そんなやるせない物語の運命と、〈推しを推す〉という行為によってきっと無意識に対峙していた。

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宇佐見りん作品はひじょうにクラシックな骨格をもつ。
『かか』においては、ともすれば奇抜に目に映るその文体は、説経節のかたりのごとし敗者のコードであり、うーちゃんやかかをはじめとする〈ポンコツ女〉たちを語るにはおそらく欠かすことができなかった。
自分自身が流出する経血の金魚は典型的なアブジェクティブな経験で、かかと自他の区別がつかないうーちゃんがそこからの卒業を決意するためには必然の光景だった。
SNSの世界とつながるスマートフォンは、中上健次が描いたオバたちのトレーラーからつづく新しい交通のかたちでもある。現実世界とSNSの言葉の異なり(SNS言葉遣い)は、語ることと書くことへの目配せであるかもしれない。
通過儀礼を無事に済ませたのか済ませていないのか、曖昧なのがうーちゃんにとっては重要だった。うーちゃんが熊野の旅を終えたその日、かかの子宮はうつほとなり、ふたたびあらゆる根源となる。

宇佐見りん作品のそんなクラシックな骨格は、彼女の書く物語を支えるための、その物語のためだけの、なくてはならない下地である。
けれど、その側面だけを視野狭窄的に捉える〈男性批評家〉があらわれはしないだろうか。
大きな苦しみを経てかかの身体から、あるいは推しの身体から血肉として剥がれ落ちたうーちゃんやあかりが、そして〈ポンコツ女〉の彼女自身からようやく生まれ直すことのできたかかが、そんな呪いのような権力によって搾取されやしないだろうかという懸念が、ふと浮かぶ。

瀬戸夏子が言った《シスターフッドの先にあるもの――シスターフッド、女性同士の連帯を示し、あるいは負の連帯をも肯定的に読みかえるポップな戦略は女性たちを救うだろう、けれどそれを狡賢い訳知り顔の〈男性批評家〉たちはまた悪用するだろう》という言葉を、わたしはここであらためて思い出すのだ。

中上健次作品、あるいは中上健次自身のもつ重力は、70年代からゼロ年代の文学世界において唯一無二の強烈さを放っていた。
消えた者、弱き者を語るはずの中上健次という存在は、その重力の強さゆえに、物語の孕む根源的なアポリアの問題そのもののように70年代からゼロ年代にかけて〈ナカガミ〉というある種権力的な構造を生み出してしまった。
その余韻は今もまだ日本文学の世界に漂う。

『誘惑のために』のなかで瀬戸は、《高橋和巳にたいする男の讃美者たちがたくさんあったのを、私は知っていたが、男同士の間に流れていた電流に、迂闊にも私は気づかなかったということが。あんなに身近に見ていたのに、と。私ほど男ばかりの環境に生きてきて男同士というものを見てきた者にとってすら、その電流は、秘密結社のそれのようなものなのだろう》と、高橋和巳という重力の周囲にあるホモソーシャル界隈の言動に傷つく高橋たか子自身の言葉を引く。

『かか』や『推し、燃ゆ』が、そんなふうに狡賢い訳知り顔の前時代的な〈男性批評家〉たちのホモソーシャル関係に吸収されて、せっかくの彼女たち自身による生まれなおしに、どうか不要な呪いが掛けられませんようにと、一読者のわたしは宇佐見りん作品をたのしみながらひっそりと願う。

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推しとの出逢いは、わたしとあなたの一対一だ。宇佐見りん作品の女たちが確かに中上健次の影を帯びていたとしても、そこに〈ナカガミ〉や周囲は一切の関係がない。というより、周囲が過剰に意味づけすることの不要さこそが『推し、燃ゆ』で描かれていたのではなかったか。

『かか』や『推し、燃ゆ』で描かれた《負の連帯をも肯定的に読みかえるポップな戦略》がこの先一体どのようにこの世界にひろがってゆくのか。
彼女たちによる彼女たち自身の生まれなおしはこの先一体どう育ってゆくのか。
わたしとあなたの一対一として、ただただ純粋に小説がどんなふうに読み手を期待させてくれるか。
そんな読書の再発見がきっと宇佐見りん作品にはあって、これからどんどん再発見がふえてゆく。

それはきっとまるで、〈ポンコツ女〉の視点が生み直された、彼女の作品それ自体のように。

*「文藝 2019年冬季号」「文藝 2020年秋季号」
*『誘惑のために』瀬戸夏子, 「文藝2020秋季号」より
*『かか』宇佐見りん, 河出書房新社, 2019年11月単行本刊行(初出:「文藝 2019年冬季号」)
*『推し、燃ゆ』宇佐見りん, 河出書房新社, 2020年9月単行本刊行(初出:「文藝 2020年秋季号」)

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