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北極冒険の時間と思考 “単独徒歩による北極冒険を続けてきた荻田泰永は、なぜ冒険を続けるのか? その答えは、意外にも機械式時計の存在意義と共通するものがあった。”

極地冒険のスタート地点では、いつも恐怖感が押し寄せ、嗚咽しながらボロボロと泣くという荻田。しかし、ひとしきり泣くと冷静さと勇気を取り戻し、ゴールに向けて歩き出すのだ。

VOL.2 現代の冒険の意義と機械式時計の関係

これまで20年以上に亘り、南北両極地での徒歩冒険を行ってきた。私が行うスタイルは、必要な物資を搭載したそりを自力で引きながら進む「無補給単独徒歩」である。北極の冒険とは、凍結した海氷上での活動だ。北極海に出れば、海の深さは2000mほどあるが、その表面で凍結している氷の厚みは平均しても2m程度。薄膜同然の海氷は海流や風の作用で激しく動き回る。海氷が動くことで、一様に凍結した海氷も掻き乱され、大河のような割れ目が発生し、または氷同士がぶつかり合うことで万里の長城のような巨大な壁を作り出す。氷点下50度に達するような環境の中で、たったひとり、そりに搭載した2ヶ月分の物資を自分が生き延びるための頼りとして、ゴールを目指すのが北極での冒険行だ。

これまで何度「なぜそこまでして冒険を続けるのか」と尋ねられただろうか。それを問う人の心理を代弁すれば「冒険をやって何になるのか」と、その現代的な意味を問うている。歴史を振り返ってみれば、大航海時代に欧州の人々を新世界に向かわせた理由として「3つのG」という表現がある。Gold(経済)Gospel(宗教)Glory(名誉)である。この時代の探検家は経済や宗教の先遣部隊だった。その後、博物学の発展に探検家が寄与し、国民国家の意識が醸成されると、探検家の業績が国威発揚に利用された。経済、宗教、科学、政治と、探検家の活動がその時代ごとに「社会的要請」の中に組み込まれていく中で「探検や冒険の意義」が規定されてきた。

現代的な冒険家が行動する理由は、経済でも宗教でも政治でもなく、多くの場合個人の活動だ。その途端に、かつては存在していた社会的要請には組み込まれないものとなり、人々は冒険家や探検家にその意義を問うことになる。しかし、大航海時代であっても冒険家は一人の人間だ。そこにはやはり、国家の意思とは別の個人的な意思がある。現代に翻ってみれば、社会的な要請が失われ、強烈な思いを抱えた個人としての冒険家たちだけが残された。 南極探検記の名著「世界最悪の旅」の中で、著者のチェリー・ガラードは探検とは何かをこう述べた。「探検とは、知的情熱の肉体的表現である」

この言葉は、私には人間とは何者であるかをも語っていると読める。未知への憧れという情熱を持ち、肉体的な困難も厭わないのは人間だけだ。社会的な要請から切り離され、裸の個人として存在する冒険家がなぜ荒野を目指すのか。それは「人間だから」だ。そのような人々が、時代の閉塞感に新しい視座をもたらしてきた。その意味において、冒険家の存在意義とは「存在自体」である。人間とは、冒険をするから人間なのだ。社会的要請が時代性において失われたからといって、人間の固有性とも言える冒険精神を失って良いのではない。

近代の探検において、時計の存在は欠かせない。18世紀、マリンクロノメーターの発明によって経度の計測精度が向上し、探検は良くも悪しくも飛躍的に発展を遂げた。現代では、機械式の時計よりも遥かに精密な時計がある。時間を見るだけならスマホで充分だ。それでもなぜ、機械式時計が存在するのか。その問いは、私にとってなぜ今さら冒険するのかという問いとの共通性を感じる。

腕に収まる小さな筐体の中に、人類の知恵と技術を詰め込んだ腕時計は、知的情熱を時計職人たちの肉体で表現した探検的な営みの結晶だ。連綿と受け継がれてきた人類の試行錯誤の営みを、いまさら役立たずだとその精神まで切り捨てることは、人間であることへの否定でもある。困難に挑戦すること、新たな技術を構築すること、それを身体を用いて表現すること、人類はそうやって発展を遂げてきた。機械式時計と冒険には、同じ精神が連綿と受け継がれていると、私は感じている。


Yasunaga Ogita
日本で唯一の北極冒険家。カナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険行を実施。2000年より2019年まで20年間で16回の北極行を経験し、北極圏各地を10000km以上も移動する。世界有数の北極冒険キャリアを持ち、国内外からのメディアからも注目される。

2018年1月5日(現地時間)には日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功。北極での経験を生かし、海洋研究開発機構、国立極地研究所、大学等の研究者とも交流を持ち、共同研究も実施。現在は神奈川県大和市に、旅や冒険をテーマとした本を揃える「冒険研究所書店」も経営する。

2023年6月「HORLOGERIE]本誌より引用(転載)

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