北極冒険の時間と思考 “北極冒険家・荻田泰永が 北極行の時に、両腕に腕時計を着ける理由とは?”
Vol.1 冒険における時計の「計器」としての役割
私は2000年より、カナダ北極圏やグリーンランド、北極海、南極大陸での単独徒歩による冒険を行っている。数ヶ月分の食料や必要な物資を搭載したソリを自力で引きながら、数百kmから千km先の目的地を目指す。氷点下50度にも達する氷の世界での、完全な単独行だ。
これまで北極や南極を1万km以上歩いてきた。2016年にはカナダからグリーンランドまで、単独徒歩による世界初踏破のルートを開拓し、2018年には日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功した。
そんな極地での単独行において、腕時計はなくてはならない必須装備である。私は左右の両腕に、種類の異なる腕時計を装着している。右腕には、ソーラー発電で駆動するデジタル時計。左腕には、機械式のアナログ時計である。右腕のデジタル時計は、気圧計やタイマー機能を主に使用し、左腕のアナログ時計は、専ら時間を見るのに使用する。
極地の冒険とは、雪の中で活動している姿だけを見れば、活動内容が雪山登山と混同されるが、実際は登山とは全く異なる。特に、北極の冒険とは、凍結した「北極海」の上を中心とした活動になるので、私の冒険フィールドは「海」である。
登山が、比較的狭い範囲の中で垂直方向に進む行為であるのに対して、極地冒険というのは海上を水平方向に広がっていく行為となる。そのため、極地冒険におけるナビゲーションというのは、登山で使用されるような地図を元にした「読図」ではなく、船が海を進む航海におけるそれに近い。
地球の中で、いま自分がどこにいるのかを緯度と経度を元に算出し、進行方向が周囲360度に対してどちらの方角になるのかを決めていく。そこで非常に重要になるのが「時計」の存在だ。私が極地で最も使用するナビゲーション方法は、時間と太陽の位置の相関性で方角を決めていくものだ。
大雑把に説明をすると、地球上の場所ごとのローカル時間の正午に、太陽は南の空にある。これを「南中」と呼ぶ。太陽の動きとは、地球の自転によるもの。地球は太陽に対して24時間で1回転、360度動くわけなので、1時間に15度ずつ動いていく。例えば、北極海で腕時計を見た時に、午後3時を示していたとする。
正午に南中した太陽は、3時間分だけ西に動いているはずだ。3時間分とは、45度である。つまり、午後3時に見えている太陽を、45度東に戻したところが南になる。こうやって、目標物のない北極海で東西南北を決めながら、目的地に進んでいくのが、極地でのナビゲーションの基本となる。
つまり、極地冒険において正確な時間というのは、正確な方角と同意である。目標物の乏しい北極海上で、方角を見失うことは生死に関わる大問題だ。航空機のパイロットが様々な計器を見ながら安全に飛行していくように、私にとって両腕の時計というのは自分の命を守る計器となる。
なぜ両腕に種類の異なる時計を着用するのか。故障に備えてのバックアップであることは言うまでもないが、異なる種類を使用する理由はもう一つある。それは、同一環境下で左右の時計が同時に壊れることを回避するためだ。私の左右の腕に起きる現象は同じはずである。
右腕の時計が何らかの原因で故障するとき、おそらく左腕にも同じことが起きる。そこで、全く別種の時計を左右に装着することで、一つの原因で同時に故障しないよう、全く異なる時計を使用するわけだ。
冒険や探検と聞くと、情熱と気合と根性で極地を歩いているように、世の人はイメージするかもしれない。しかし、その現場で行われているのは、緻密な計算と最大限のリスクマネージメントである。情熱がなければ足は踏み出せない。しかし、高回転でエンジンを吹かすように、情熱だけを武器にしていては事故に遭う。
エンジンは高回転で回しつつ、理性というステアリングをミリ単位で正確に切っていくことで、冒険や探検はその精度もレベルも高度なものに達していくのである。
Yasunaga Ogita
日本で唯一の北極冒険家。カナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険行を実施。2000年より2019年まで20年間で16回の北極行を経験し、北極圏各地を10000km以上も移動する。世界有数の北極冒険キャリアを持ち、国内外からのメディアからも注目される。2018年1月5日(現地時間)には日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功。北極での経験を生かし、海洋研究開発機構、国立極地研究所、大学等の研究者とも交流を持ち、共同研究も実施。現在は神奈川県大和市に、旅や冒険をテーマとした本を揃える「冒険研究所書店」も経営する。
2023年3月「HORLOGERIE]本誌より引用(転載)