「一胴長坂分蔵切断」と彫された日本刀とは。
長坂遊(推)鵬軒の彫が施された脇指「津田近江守直助」です。
長さ一尺九寸七分、反り五分半の脇指の銘には、津田近江守直助 彫物長坂遊鵬軒作貞享二二年八月 元禄六年四月十三日 一胴長坂分蔵切断 と彫されています。
津田近江守直助(おうみのかみなおすけ)とは。
寛永十六年(1639)に近江国高木(現、滋賀県野洲市高木)に生まれました。はじめ、初代そぼろ助広に師事し、二歳年上の二代甚之丞助広とともに助廣の刀工房で鍛刀に励み、師の晩年期にはその代作を任されるまでなったといわれています。
寛文三年(1663)に初代助廣が歿すると、助直は二代助廣の妹婿となります。その後、江州高木と大坂間を往来する生活をおくりながら二代助廣の刀工房を支えます。そして寛文九年に「近江大掾」を任官して「近江守」となりました。
はじめは「近江国住助直」と銘を切っていましたが、任官後は「近江大掾藤原助直」また、「近江守藤原助直」へ、そして延宝頃には「近江守高木住助直」と銘を刻するようになります。さらに天和二年(1682)頃からは、全ての作刀に「津田」姓を冠して『津田近江守直助』の銘を切っています。
ではこの日本刀「津田近江守助直」の脇指を鑑賞してみましょう。
鍛えは、小板目がよくつんで地沸が厚くついた、きめ細やかできれいな肌合いをもつ特色で、明るく冴えています。刃は、上大互の乱れ(碁石を横から見た形と似て連続した波型に見える刃文)で、大波が波が打ち寄せるような濤瀾(とうらん)風となっています。
帽子(切先)は、小丸で直ぐ。
次に五分半の反りです。反りがあることで斬るものに対して刃が斜めに入るようになるため、少ない力でも効率よく刀の威力を発揮することができます。「折れず、曲がらず、よく切れる」を追求したのが日本刀と言われています。ではこの『津田近江守直助』の威力とはどのようなものだったのでしょう。
日本刀の「切れ味」を確認する試し斬り。
安土桃山時代から江戸時代、日本刀は武器として一番の性能である「切れ味」が重要視され「試し斬り」が行われていました。刀の出来、銘刀としての品定めの基準にもなっていました。
では何を斬るのか。巻き藁や畳、青竹などでの試し斬りもありますが、武器としての切れ味を確認するには人体が最も分かりやすく、戦国時代から江戸時代にかけては全国各地で試し斬りが行われました。
「一胴長坂分蔵切断」と彫されたこの日本刀。一体どのような意味があるのでしょうか。
江戸時代、試し斬りは罪人の死体を並べて斬ることが常なのですが、体には斬りやすい部位と斬りにくい部位があります。では彫されている「一胴」とはどこなのでしょう。
「一の胴」と言い、乳頭のやや上、肋骨が多い箇所で難易度の高い部位です。(江戸時代後期には斬りやすいみぞおちあたりを指すようになります)それを一刀両断させた刀が津田近江守直助だ、ということを彫していることになります。
次に「彫物長坂遊鵬軒作」とは。
銘刀工が渾身の力をこめて鍛えた日本刀は、刀自体が持っている美しさを損なわず、強度を保ったまま、より魅力的な作品になるよう「刀身彫刻」が施されます。長坂遊鵬軒は、津田近江守助直や一竿子忠綱、伊勢守国輝など、名だたる銘刀鍛治の多くの作品に刀身彫を刻しています。
その中の一振り、長坂遊(推)鵬軒の彫が施された脇指「津田近江守直助」の刀身彫刻とはどのようなものなのでしょう。
表腰元に彫されているのは「倶利伽羅」です。不動明王の持つ剣に龍の巻き付いた姿の彫り物です。裏には不動明王の「梵字」があり、その下には、武神である毘沙門天の旗鉾が彫せれています。
このような彫り物は、作者や所有者の守護を願うものです。刀は、その美しさだけでなく、持つことで加護を賜ることができる。卓越した精神を発揮できる「徳」を手にすることができる。それもまた日本刀の魅力ではないでしょうか。
長坂遊(推)鵬軒の彫が施された脇指「津田近江守直助」もまた永遠に輝き続ける「徳」を持ち、吉祥を授かる家宝として代々受け継がれていくことでしょう。
参考資料:「新刀大艦」巻之一(飯村嘉章 著)/ 「刀剣美術」第五六九号(財団法人 日本美術刀剣保存協会 発行)