白湯のような言葉のエッセイ集・朝吹真理子『抽斗のなかの海』

白湯、あるいは湯気のような文章というものがある。

さっきまで何の変哲もないただの水だったもの。小鍋でしゅんしゅんと沸かされてひとたび熱をあたえられると、それは途端に、ひとの心に穏やかさをもたらすべつの飲み物となる。

成分は水と何ら変わりないはずなのに、そっとくちびるを浸けてみれば、水とはちがう味がある。そこから立ちのぼる湯気も、まわりの空気との境目はおそらく存在しないはずなのに、どこか甘い。透明で、澄んでいて、特別な装飾を施されているわけではないのにおいしい。むしろほかの豪奢な飲みものよりも、白湯をふくむと舌や咽喉がよろこんでいるような気がしたりもする。

朝吹真理子の『抽斗のなかの海』はまさにそんな白湯、あるいは湯気のような文章で紡がれた、透明な滋味にたぷたぷと満たされたエッセイ集だ。

デビューから10年、彼女が芥川賞を受賞してから8年が経ち、文芸誌や芸術誌、文学全集月報、暮らしの雑誌、新聞など、さまざまな媒体に発表していたエッセイが読み応えのあるボリュームでまとめられている。

共通のテーマがあるわけではないが、一冊を通して読んでみれば、彼女の芯のある文彩を読者は存分に味わうことができる。海辺に散らばっていた貝殻を何十枚も拾い集めて、ふとてのひらを確かめた時、その貝殻がふしぎにすべて同じ色をしているのに気づいて微かな驚きをおぼえる、この本を読む体験は、まるでそんな瞬間のようだと思う。

数年前に記されている各話のおわりに、現在の著者自身がそれを読み返したコメントを付しているのが、このエッセイ集の特徴だ。

著者はデビュー作『流跡』、芥川受賞作『きことわ』から〈海〉や〈投壜〉といった存在へなみなみならぬこだわりを持っており、今年出版されたエッセイ集『抽斗のなかの海』でもそれは変わらない。

なにかを書くときは、果てしない海にむかって、壜を投げるような気持ちでいる。それがいつどんなひとに届くかわからないけれど書いている。こどものころから、何かしら書いては、投げていた。

はるかな遠浅に突っ立っている過去の自分にむかって、現在の自分が応答する。かつて書いた同じできごとを壜に詰め直し、過去に向かって送り返す。

エッセイ本文では真面目に書かれているできごとが、しかし現在の著者の視点からはまるでギャグのような捉え方をされていたり、あるいは逆に、ユーモアたっぷりに書かれていた過去のできごとが現在では至極切実に読み直されていたりなど、著者の感覚の変化を知れるのも、読者にとっては新鮮でおもしろい。

収録されているエッセイは、日記、時事、食、書評、女子高生時代の思い出、自分の偏愛する鉱物についてなど多岐にわたるが、評者がとくに気に入っているのが第一章におさめられている2011年春の将棋観戦記だ。

発表されたのは2011年4月。やわらかな気配の漂うほかのエッセイとは異なり、この話は、著者の視点が研ぎ澄まされた怜悧な対局記録調となっている。

三月十一日、郷田真隆九段対村山慈明五段戦当日、天象の記憶は抜けてしまっているが晴れていたと思われる。午前六時半起床。緊張のあまり眠れず、対局室内でお茶をこぼす夢をみた。

将棋ファンの著者は度々観戦に行くらしく、この日もそんな、ほんの少しの興奮に彩られた一日となる。

のだろうと思いつつ、読者の目の端には、エッセイタイトルの「将棋観戦記 2011年3月11日」というその日付が、悪寒を帯びた閃光のようによぎるのだ。

ねぼけまなこのまま雲鶴の間に移動した著者は、ほかの棋士や記者とともに対局を見守る。専門家ではない著者の視点からのぞく観戦風景は、わたしたち読者の目をすうっとその場に同化させてくれる。

検討に夢中で降雪にも気がつかない棋士たちの思考。一手のさらにその先の一手へとむかう盤の気迫。のんびりした朝の気配にふと漂う、ひしめく思考と興奮。今朝みたばかりの夢とそっくりに、九段がこぼしてしまったほうじ茶のしみ。それを拭うティッシュの顛末。それから千駄ヶ谷でスパゲティの昼食をとり、戻ってきたら、対局室の隅に《きれいに重ねられた店屋物の丼、レンゲ、漬物皿等。めんつゆや揚げもののいいにおいがうっすら残っていた》光景。

午前中は定跡に進んでいた盤の宇宙は、午後に入ると《平らかだった流れは少しずつばらばらになって、時間の焦点がそれぞれの盤に向かって絞られてゆくように思えた。唇を真一文字に引き結ぶ村山五段。目をどこでもないところへともってゆく郷田九段。ひとつの対局のうちにも、盤と対局者とが、それぞれべつの理で動いているように見える。》

静謐な緊張に満たされてゆく将棋会館。

と、その時に〈揺れる〉。

午後二時四十六分。3.11東日本大震災である。

「一度外に出ましょう」という声が壁越しに聞こえた。記者の柏崎さんが隣室で取材をしていた。羽生善治王座がささっと階段を下りてゆく。一切まごつかないその後ろ姿に、危機回避能力の高さと将棋の強さとの関係性を感じながら、踏みはずさないよう気をつけて後に続いた。

盤上の駒は驚くべきことにぴくりとも乱れてはおらず、度重なる余震により止むを得ず一旦中断となるものの、会館近くの中華料理屋で著者が夕食休憩をとったのちに対局再開。救急車のサイレンが対局室に響いても、棋士の耳には届かない。交通が完全に麻痺し、帰る術を失った記者も、著者も、その場にいる全員が、もはや一手先の変化を見守るしかないその極限の状況が、見事なまでに描かれている。

このエッセイのすぐ後につづく「ALL IN TWILIGHT」では、東日本大震災の三ヶ月後に宮城と福島を訪れた時のできごとが、さらにその後の「選ばれなかった一手 将棋感想戦見学記」では、ふたたび将棋における一手先の創造と破壊に思いをめぐらせる。震災の影を帯びる先の三連のできごとを読み、つぎのページをめくると、今度はやや時が飛び、「ミサイルきょうはこなかった 二〇一七年四月」というエッセイ。

そのエッセイで第一章が締められた時、わたしたち読み手は、所収された過去の時間の、その並べ方の妙味を知る。

白湯、あるいは湯気のような文章と喩えたように、朝吹真理子の言葉には、どこか透明でうっすらと甘い魅力がある。蛇口をひねって小鍋に水をそそぎ、火にかける。誰にでもかんたんに用意できる白湯のように、読みやすく、なめらかな文章で記されているのに、ひと口ふくめば、ほかのどんな飲みものよりも読み手の身体がよろこぶ。

平易で親しみやすい彼女のエッセイ文は、しかし読み進めてみれば、彼女が偏愛する水晶や鉱物のように、透明であるそのなかに、宇宙のごとくに複雑で精緻な構造があるのだとわかる。

2019年ベストワンのエッセイ本。年末年始、日常の彩度が静かに高まるこの時期に、ゆっくりと口にふくみ、たのしんでほしい一冊。

*『抽斗のなかの海』朝吹真理子, 中央公論新社, 2019年7月刊行

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