広島・江田島の旧海軍兵学校で近代史の側面を垣間見る。

宇品から船で約20分。わざわざでも足を運ぶべき江田島。

寒風の中にも陽だまりの暖かさが心を和やかにしてくれる12月、広島を訪れた。仕事の打ち合わせを終え、本来ならそのまま新幹線で帰阪するのだが、以前から訪れてみたいと思っていた江田島へ向かうために宿をとった。

市街地の南端、宇品にある広島グランドプリンスに着いたのはちょうど黄昏時。広島湾にはいかにも冬っぽく寒々しいが、発色のいい色鮮やかな夕焼けが広がっていた。

翌日、ホテルの桟橋から江田島小用港行の高速艇に乗る。わざわざ市街地から離れたホテルにしたのは、ここから江田島まで直行できる船があったからだ。かなりの強風が吹き荒れる中だったが、船窓の景色を楽しみながら江田島に到着。

途中には艦橋部だけを浮上させて航行する潜水艦も目にすることができた。港からは島内を走る路線バスに乗り、5分ほどで術科学校前バス停に到着。正面の門で見学の旨を伝え、記名して江田島クラブという建物に進む。

ここが所要時間約90分の見学ツアーの待合所になっている。基地は現在、海上自衛隊の幹部候補生学校や第一術科学校になっており、さすがに自由に散策させてくれるようなことはない。

江田島クラブには食堂や売店があり、食堂では名物の海軍カレーが食べられるが、誰もが食べやすい味だったとだけ記しておこう。売店には艦名を刺繍したキャップやシャツ、制服や階級章なども売られており、見学者や学生の父母が記念品として購入することを想定した品揃えだった。

のんびりした島に威風堂々とした建築物が聳える違和感が時代を鮮明に物語る。

時間となり集合がかかるが、いたって普通。海軍式ではなく一安心。自衛隊OBのガイドさんに連れられて出発した。一見、大学のキャンパスのようで、異様に広くて整然としている。

ちなみに海軍兵学校について少し説明すると、明治21年に東京から移転開設され、終戦の昭和20年まで総計1万2433名の海軍士官を輩出した。東大や京大など旧帝国大学よりも入学が難しいといわれ、全寮制で勉学も訓練も生活規則も、現在では想像できないほど苛烈を極めたという。

そういうこともあってか同期の結束は鉄のように強く、戦死した者に家族がいれば、残った同期が可能な限り面倒を見る、というような不文律もあった。

現代の価値観からかけ離れた超エリート主義、スパルタ教育、パワーハラスメントを前提とした独特の環境ではあるが、彼らの友情や青春は小説や映画になり、多くの共感を得ているのも事実だ。戦後、復員した卒業生には、軍服をスーツに変えて成功を修めた人も多い。

見学コースはまず講堂から。国会議事堂にも使われた御影石が寸分の狂いなく組まれ、内部の天井や床の見事さにため息が漏れる。ここは現在も入学、卒業などの式典で使用されている。

続いて100年以上前にイギリスから1個ずつ紙にくるんで輸入されたと伝わる赤レンガが使われた旧海軍兵学校生徒館へ。こちらは現在、海上自衛隊幹部候補生学校庁舎となっており、見学は外からのみ。

建物の長さが144mあり、圧巻と同時に無言の威風が伝わってくる。ちなみにNHKがかつて3年越しに放送した司馬遼太郎原作のドラマ「坂の上の雲」などのロケも行われている。

「反戦」「哀悼」のさらに先にあるものを自分なりに考えてみたい。

最後は教育参考館という名の、いわば博物館。ギリシャ神殿風の堂々とした建物で、兵学校卒業生の積立金と一般の寄付によって昭和11年に建築された。展示品には東郷平八郎や山本五十六などに縁の品や、特攻隊関係もあり、心を揺さぶられる内容だ。

教育参考館の周囲には戦艦大和の砲弾の碑や、人間魚雷の展示などもあり、鎮魂や慰霊の場ともなっていることから、タンクトップ、短パン、サンダル等の服装ではツアーに参加できないとなっている。見学はここから最初の江田島クラブに戻って終了。

天気に恵まれ、尖がった古鷹山がきれいに見えた。山頂から大声を出して兵学校の校庭に声が届くまで繰り返させられたというエピソードもある。到底届きそうもない距離だが、半分は精神修養だったのだろう。

基地を出て、陽ざしの気持ちよさもあり小用港まで歩くことにした。対岸はかつても今も海軍・海上自衛隊の一大拠点となっている呉。日本アカデミー賞の最優秀長編アニメーション作品賞に選ばれた「この世界の片隅に」は呉が舞台になっている。

独特のほんわかした雰囲気が心に刺さる作品だ。流行りの聖地巡礼に興味はないが、広島、江田島、呉と周回したことで、一冊の本を読み終えたような清々しくも余韻を引きずった気持ちにさせられた。

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