〈あれ〉に似ている情緒と余韻・町屋良平『ショパンゾンビ・コンテスタント』

「大人になるということはつまり、大判コミックの情緒や余韻がわかるようになることだ」と、いつだかに思った記憶がある。

〈大判コミック〉と一言でまとめるのは多少粗雑であるとは自覚しつつ、それでもやはり、そういう情緒や余韻はこの世に存在しているような気がしてしまう。

幼稚園や小学生の頃に夢中で読んでいたてのひらサイズの少年少女コミックス。ある日それにふと読み飽きて、いつもの書店のいつもの棚から少し目線を上げてみれば、そこに並べられていたのはいつもの漫画よりふたまわり以上も大きい、硬くて厚いコミック本。
りぼんやなかよしやジャンプやコロコロとは違う耳慣れない月刊誌連載の、あるいは書き下ろしの、大人なタイトルのそれを思いきって買ってみると、そこには自らの日常とやや地続きの、それでいて、リアルな日常や感情を何万倍もの解像度で撮影したような、おそるべき繊細さによって描かれた情景がひろがっていた。

ちょっぴりえっちで、憂鬱で、けれど読み終わればなぜだか馬鹿げて明るい気持ちになる。
それはまるで、たかいたかい空を見上げた時のような。

町屋良平の小説を読んだあとはいつもそんな気持ちになるので心地よい。
町屋良平の描きだす言葉は大判コミックを読んでいる時におぼえる情緒と余韻を帯びていて、その情緒と余韻がわかるということは、きっと自分が大人になった証拠であるのかもしれないと思う。

町屋良平は出版スピードにおいても読者の興味を離さない。

デビュー作『青が破れる』では、男女五人のさりげない日常をつぎつぎに訪れる死の影のすきまに描き、『しき』を経て『1R1分34秒』で芥川賞を受賞、〈やさしいひとたち〉の感情の機微を見事に紡いだ『ぼくはきっとやさしい』『愛が嫌い』といった作品発表の後、ピアノと小説、ふたつの芸術行為をモチーフにした『ショパンゾンビ・コンテスタント』を2019年10月に出版した。

『ショパンゾンビ・コンテスタント』はダブル主人公の物語だ。

ひとりめの主人公は〈ぼく〉。〈ぼく〉は自らの音楽の才のなさや情熱のなさからせっかく入学した音大をすぐに中退し、深夜のファミリーレストランでホール担当のバイトとして働きつつ、なんとなくこの世界をやり過ごして生きている。といっても、幼少からつづけていたピアノは完全にやめたわけではなく、時おり実家に帰って、グランドピアノの鍵盤に指を落として馴染みの曲を奏でてみたり、親友である源元(げんげん)が猛練習中の協奏曲のオケパートを弾き、となりでサポートに務めたりもする。

ふたりめの主人公・源元は、〈ぼく〉の音大での同級生だった。
源元には〈ぼく〉よりもピアノの才能がある、と〈ぼく〉は思っている。
源元は《学問というよりも魔法寄り》の、霊感にたよった奏法を好み、スケール感はずば抜けているもののコンテストではいつもなかなかファイナルまで残れず、けれど審査員特別賞などをもらったこともある、飄々としたふしぎな存在だ。

源元には中学生時代から付き合っている彼女がいて、潮里というその女の子は〈ぼく〉のバイト先のファミレスの同僚。深夜の静謐であたたかな時間を共有するうち、〈ぼく〉は親友の彼女である潮里をどうしようもなく好きで好きでたまらなくなってしまう。

この小説では、そんな〈ぼく〉と源元と潮里の三角関係、そこへ愉快にわりこんでくるファミレスのキッチンバイト寺田くん、寺田くんの提案する唐突な旅、そしてショパンコンクールへ挑む源元の日々が描かれる。

そしてその小説を描くのは、〈ぼく〉なのである。

 ぼくが源元に、
「お前のこと、かいていい?」
あたらしい小説に、とたずねると、かれは「いいよ」べつに、と応えた。
いつものぼくの部屋。毎度のショパンコンクール。最近閉めきるようになった夜の窓。源元は真剣にPCの画面をみつめていて、ぼくのことばをきいていないようにみえた。
なので、
「というか、もうかいているんだけど」
小説、というと、もう一度源元は「いいよ」べつに、と応えた。一度目とまったくおなじように。

音大をやめた〈ぼく〉は退学後、小説を書くことに興味をもつ。
ショパンコンクールに臨む源元と競うように〈ぼく〉は公募小説新人賞に目標を定めて物語を打ちはじめるが、実際の親友である源元を主人公に据えたせいなのか、書いては止まり、書いては止まりをくりかえす。〈ぼく〉の日常とリンクした小説のはじめのシーンばかりをくりかえし書き、源元や寺田くんや潮里に読んでもらうものの、彼らからの良い感想はいっこうに得られない。

そんな〈ぼく〉の様子はやがて、コンテスト用のショパン曲と懸命に格闘する源元の感情や指先と溶けあい、物語の冒頭では手と足ほどに異なる存在だった〈小説〉と〈ピアノ〉が、いつのまにか〈ひとつの身体〉として共通のたましいを有していることに読者は気づきはじめる。

それを気づかせる町屋の筆致が見事なのだ。

物語を読みすすめていると、どうやら〈ぼく〉はスマートフォンをつかって小説を執筆している(打っている)とわかるのだが、たとえば、とあるシーンのモノローグを追っているとそれがグラデーションのように〈ぼく〉の書いた源元の小説の冒頭になっていて、数行後に突然スマートフォンふるえて現実の源元から《ねえ、どこ?》とメッセージが届いたりする。
それで、これまでわたしたちが読んでいた光景は、この小説のなかの〈ぼく〉の小説だったのだと知る。
そんな驚きが幾度となくくりかえされる。
読めば読むほど、読者はどこが現実でどこが〈ぼく〉の小説か、どこが小説の言葉でどこがピアノの音なのか、なにもかもがわからなくなってくる。

本を閉じる頃には、さまざまな現実の入り混じった曖昧な〈身体〉が目の前にポンと誕生したような、そんなふしぎな気持ちになるだろう。

町屋良平の描く物語の登場人物たちは、いずれも〈いま〉この瞬間のたゆたいのなかで生きている。

何かで一等に輝いたわけではない。審査員特別賞だったり、公募小説の二次予選通過だったり、親友の彼女のたわむれ相手としての立ち位置だったり、そもそも生きているのか死んでいるのかもわからない、曖昧なモラトリアムのゾンビたちばかりが、この世界の〈いま〉の情緒にもたれかかる。

 隣に座っているダン・タイ・ソン先生が、「ピアノを止めたことを、きちんと立ち止まって考えなさい。あなたの人生にとって巨大な、対話てきな、岐路を書きなさい。自分と向き合うということは、本来ことばにできない体験です。わたしは音楽とまっすぐに相対して、それでも完全に音楽と一体になるようなすばらしい瞬間は稀でした。ことばにできないことばは表現になるのでしょう? あなたはそれをめざしなさい。もっと自分をしりなさい」といった。ははあ、これは夢だな、とぼくはおもった。夢と理解しつつ、心がどうしようもなく感動してしまって、「はい、先生」忘れません、とぼくは泣いた覚悟を決めます。才能のない、愛のないぼくは、まだ孤独すらしりません。でもそのことすら、書いてしまいます。ぼくはほんとうにダメなヤツです。

情緒と余韻という存在はもしかしたら、たとえばピアノの曲の超絶技巧と表裏一体の存在であるのかもしれない。
現実の人間はそんな存在をあざわらうかもしれないが、町屋良平の小説は、物語のなかであるからこそ、そんな情緒と余韻に向き合うべきであるのだ、とわたしたちにつよくつよく訴える。
そしてまた物語は、小説は、この世界に溢れる言葉や音楽は、それらはすべて〈ひとつの身体〉として、わたしたちの現実とかけがえなく繋がっているのだと、そう教えてくれもするのだ。

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