こだま『ここは、おしまいの地』:彼女の抜け殻を拾いあげること

本という存在を神格化する人がとても多い気がする。と、むかしから思っている。

もとを辿れば古代エジプトの文字が書かれたパピルス紙だのキリスト教の聖書だの何だの、本と神の親和性にまつわる諸々が出てくるだろうけれども、それはそれとして今は西暦2000年から20年も経過しているというのに、そして今や液晶越しに言葉を眺める電子書籍も当たり前だというのに、それでも人は今もなおいつも心のどこかで〈本には大事なことが書いてある〉と思っている、のではないだろうか。
そしてまた、本をたくさん読めば人間の心はつよくなれるのだとも。
本に書いてある誰かの物語を読めば、まるで自分もそれを経験したかのように何かを得ることができ、読み終えたあとは自分も成長できるのだとも。
「この本に、勇気をもらいました」そんな紋切り型の口コミ文。
果たしてそれは正しい考え方なのだろうか?

確かにこの世には〈読むこと〉や〈書くこと〉を拠りどころにしてなんとか生きながらえている人間が数え切れないほどいる。もしかしたらわたし自身もその類のひとりかもしれない。そう思う時もある。しかし、そう思える時は大概心が元気な時だ。
心が弱っている時は普段の倍の勢いで本を読んだり書いたりするけれど、その勢いの分だけ自他の境界が曖昧になってしまうので、自分が〈読むこと〉や〈書くこと〉に依存している事実に客観的に向き合えない。〈読むこと〉や〈書くこと〉に依存している自分がまったく視界に入らないのだ。
自分が〈書くこと〉に依存して、〈書くこと〉にすがるようにしていたと気がつくのは、いつだって心がちょっとだけマシになって靄が明けたあとなのだ。

「病気になって、仕事を辞めて、子供も産めないんだって」
中学を卒業して以来会っていない同級生にまで伝わっていた。
病気になって、仕事を辞めて、子供も産めないことがいったい何だというのだろうと、それを気にしているのは他でもない私自身なのかもしれない。
私は実家に帰りづらくなり、暇を埋めるようにブログを更新した。
開設したてのころは、買った物や食べた物、アルバムやB級映画の感想などを載せていたが、それは長く続かなかった。けれど、家族のことや集落での出来事を思い返しているときは、なめらかに指が動いた。
私は集落のちょっとした腫れ物のような扱いを受けていたにもかかわらず、気が付くとブログにもコラムにも故郷のことばかりを綴っている。そこにあるのは憎しみでも恨みでもなく、滑稽な過去だ。それは、子供の時分、寝る間を惜しんで日記帳に向き合っていた日々に似ている。

『ここは、おしまいの地』のなかでこう書いている作者のこだまが、わたしと近しい依存の仕方をしている人だと言うつもりは一切ない。けれど彼女も、〈書くこと〉での自浄に依存していたと自身が知るのはいつも〈書いたそのあと〉だ。
不穏な家庭、空き巣や詐欺まがいの訪問販売、陰湿で狭苦しい空気の漂う限界集落。赤面症や巨大な痣ぼくろ、金髪の豚と呼ばれたヤンキー彼氏、最果ての地に建つ恐ろしい悪臭を放つ借家、不審なエアガン男、学級崩壊、首の手術、鬱。一見重苦しいワードに満ち満ちた一冊のエッセイ。
しかしながらこの本を読めば、彼女がもう〈書いたそのあと〉の世界にいるのだと知れて、わたしは不思議に安堵するのだった。

この本に書かれた内容は、すべて彼女の抜け殻だ。
書いてある出来事はもう現在の彼女の身を包んではいないし、苛んでもいない。わたしたちは彼女の脱ぎ捨てた蝉の抜け殻を幹からプチッとつまみ取り、陽に透かして眺め、あつめていく。さっきまでそれが彼女自身だったという気配だけがほのかに残っている。茶色く乾いた脆い殻の、もがいた跡の残る裂け目がとても愛おしいと思う。
けれど抜け殻があるということは、殻をやぶって新しくなった〈書いたそのあと〉の彼女が、今もずっとずっと生きているということに他ならない。
彼女の〈書くこと〉への依存と〈書いたそのあと〉は日々更新され、未来永劫蓄積されていく。

『ここは、おしまいの地』には、たぶんわたしたちにとっての大事なことはほとんど書かれていない。神格化するような存在の本でもない。この本に書かれているすべては、きっとそもそもわたしたちに向けられたものなどではなかった。彼女だけの大事なことばかりがページの隙間に隠されている。
けれど作者のこだまが自分にふりかかる奇妙な不幸を言葉にして吐き出し、その言葉で身を包み、そして役割の済んだ言葉の殻を脱いだその時、彼女だけの不幸はもう彼女だけのものではなくなっている。
誰かがつまみ上げ、きれいだな、と空に透かすまったく別の物体となる。言葉の殻へと生まれ変わることによって距離がうまれる。すると一転して、わたしたちに向けられてはいなかったはずの彼女の物語に、わたしたちも向き合えるようになる。

『ここは、おしまいの地』は誰かに勇気を与えるような本ではなく、ただただ孤高で勇敢な作品だと思う。

 先日とある人に「あなたは大胆なんですか? それとも慎重なんですか?」と問われた。
答えられなかった。私は物心ついたときから、ずっと自分のことがわからない。人と一緒にいると、その場その場をやりくりするだけで精一杯で、平静を保つ余裕がない。誰かと話していると何でもできるような気分になり、夜ひとりになると「大変なことをしてしまった」と布団を被って悔やむ。一日のあいだで浮いたり沈んだりし、最終的に自責の念に駆られる。
逆に聞きたい。私は一体なんなのでしょうか。不安定な身の上をふざけ半分に話してみたり、綴ったりするのは病気でしょうか。
書いていることを身内に知られたくないのに垂れ流す。決してスリリングな状況を楽しんでいるわけではない。常に背後に不安がくっついている。怖い。書きたい。先が見えない。でも書きたい。どれも本当の気持ちに違いないのに、矛盾が生じる。頭がおかしいのでしょうか。どんどんずるい人間になっているだけでしょうか。

彼女は身内に書いていることを知られぬよう、ずっと〈こだま〉というペンネームで文章を書きつづけている。
デビュー作の『夫のちんぽが入らない』が同人誌から商業単行本化し、爆売れし、全国のあらゆる本屋で平積みになり、漫画にもドラマにもなり、そして二作目の『ここは、おしまいの地』が講談社エッセイ賞を受賞し、《東京のきれいなホテル》の授賞式で大勢の作家や出版社に寿がれ、たくさんの《華やかな出来事》を経てもなお、こだまはこだまという三文字のまま、顔も素性も隠し、ふわふわと文章の世界を漂ったまま、静かに書きつづけ綴りつづけ、相変わらず身の周り三メートルほどの世界に流されつづける。
そのしたたかで一貫した彼女の姿勢が、わたしにはとても眩しい。

じつは先日、離れて暮らしている母親がわたしの名前をネット検索してSNSを頻繁に見ているという恐ろしい事実が発覚した。
コロナで不安になったのか、それともわたしがものを書きはじめて以降ずっと隠れて読んでいたのかはわからない。明らかにわたしのSNSを見ていないと知れないようなことをLINEで珍しく連絡してきたのでやんわり問いただすと、「あなたの名前で検索したら、いろいろ出てきます。たぶん、エリちゃんは家族が見ているのはキライだろうから深い事はわからないけど、フォローしていいなら、するよ」というこの世で一番恐ろしい返信をよこしたので即座に拒否し、母と対峙して史上三番目ぐらいに怒り、母と距離を取った。
冷静に名付ければいわゆる毒と読んで差し支えない過干渉な母が、子ども時代からほんとうに苦手だった。きちんと言葉を交わしたことが一度もない。視点が一切重ならない。身内で、身内で好きだからこそ嫌いになれず、ただただ彼女の隣で呼吸をするのが苦しくて仕方がない。同じクラスにこんな生徒がいたらわたしはぜったいに友だちにはならないだろうと思いつづけて大人になった。

確かにわたしはずっと本名でものを書いているので、ペンネームで書いている人たちのように純粋な〈ものを書く概念〉には一生なることができない。ばれるのはかまわない。すでに一定の周囲の人間には知られている。それでも母に見られているのはまるで監視のようで、母はきっと読者ではなく監視者の目でわたしの文章を見ていて、そしてその事実がたまらなく憎かったのだと思う。
過去「あなたのしていることは見ません」と約束を申し出てきたのは、母のほうからだった。

机の上に置いている日記を盗み読みしているようなものだからほんとうにやめてください、と息も絶え絶えになんとか返したわたしの言葉に、しかし母は「そんなに怒られても困るんだけど。無理やり見たり、聞き出したりしたわけではないので……。積極的につながるようにしたわけではなく、出てきたのを見ただけだよ」と、アサッテの返信をさらによこしてきて、わたしは途端に体調をくずしてしまった。

問題は「なぜ出てきたのか」であるのに、そもそも能動的に出さないと見られないのに、そしてわたしが身内に見られるのが嫌いだと母自身がわかっているのに、なぜ「検索して出したのか」。
「出てきたのを見たのか」。
その行為の真意を問い詰めても、母は真顔ですうっとわたしから目を逸らす。
物心ついた頃から、わたしの言葉は母には何一つ届かない。
読者としての冷静な立場であれば書いた作品や書評を見られるのはもちろんかまわない。
身内という枠を超えて、身内のことを気にせず好きなようにやってほしいと、また、身内を離れてのびのびと自由に、個人としてどんどん頑張っていってほしいと、ひとりの書き手として敬意を払ってもらいたかった。

絵や音楽よりも、文章は作者の内面が強く出る。
小説にしろ、エッセイにしろ、書評にしろ、本気で文章をやりたいとずっと思ってやってきたのに、母や身内に見られていたら無意識に遠慮や忖度をして、これからは何も本気では書けなくなる。書いたものの宣伝もできなくなる。
本気で文章を書けなくなったり、宣伝できなくなったら、どうなるだろう。
せっかく手に入れた書く場所を、瞬く間に失ってしまう未来しか見えない。

そのようなことを人生で初めて正直に、勇気と羞恥を振り絞って母に投げ返した。三千文字を超える長文になった。親が成人した娘のプライベートを監視することは完全に非常識であると、けして手を出してはいけないことであるのだと、今まで鍛えてきた自分の言葉をフルスイングにして、伝えた。けれどやっぱり母はわたしの言葉を受け取りはせず、ごめんねの一言もなく、もう見ないとも言わない。
「もういいよ」と、勝手に言い置いて逃げようとする。
「もういいよ」と言う立場なのはわたしのほうであるのに、母は、え、わたし何にも悪くないのにこの人怒ってて怖い、というおどおどした目でわたしを見上げてばかりいる。そしてわたしを縛り付ける。わたしの罪悪感ばかりが降り積もる。

「わたしの日常や活動のなかで起きた家族に話したいことは、わたし自身が選択して、話したいことだけを母に話します。それなのに今回のようなことをずっとされつづけていたら、わたしは今まで以上に何もかも母に話す気が起きなくなり、今後、引っ越したり、結婚したり、子どもができたり、そういう大事なことも、一切母に報告しなくなると思います。それほどの駄目なことを、非常識なことを今しているのだとわかってほしい。
それは母にとって嬉しいですか? 嬉しくないよね。わたしも嬉しくないです」
そんなわたしの渾身の言葉にも、未だに母からの答えはない。

それでもわたしは書きたいし、これからもひとりの大人として生きなければいけない。
そんな時にふと読み返そうと思ったのが、『ここは、おしまいの地』だった。

彼女は他人から「あなたは大胆なんですか?」と訊ねられる。
こだまというペンネームで書いているとはいえ、あまりにも身内について辛辣に書きすぎる、実際の不幸を面白がって綴る。実体験を正直に書くがゆえ、バレるリスクとは一生背中合わせのまま。

けれどわたしは、彼女はけして大胆ではないのだと思う。
孤高で勇敢ではあるけれど、すべてを大胆に振り切っているわけではない。
『ここは、おしまいの地』のなかで、《すべてを知ったあとでも私と家族のままでいてくれるだろうか》と書いて紙の上でぽつんと佇んでいる彼女はきっと、いつも自ら出てくる言葉を何度も何度も手で撫でて、安全であると確かめてから野に放つ。
それは自分も身内も、そして読み手さえも、〈今〉はまだ誰ひとり傷つかないようにという祈りのようなものなのかもしれない。

自らの息苦しい身辺を文章にして吐き出して、世間に晒し、読まれること。
それを自傷と喩える人間もいるだろうか。
しかしそんなふうに思う愚かな人間は、勇敢な彼女に文章にされてしまえばいいのにと思う。

きれいな抜け殻に生まれ変われば、愚かもきっと尊かろう。

わたしはまだ彼女のように、母のことを上手に言葉にすることができない。
文章を書きたいのに、知られたくないことを垂れ流すのは一体なぜなのか。
わたしはまだその問いにがんじがらめになって身内のエッセイを上手には書けないけれど、彼女はわたしと違って、その問いにもがきながらも勇ましく前に進んでいく。

いつかわたしも彼女のように、自由に言葉のなかを動けるようになり、〈かわいそうな私〉を脱ぎ捨てて、誰かにその殻を拾ってもらえる日が来るだろうか。
わたしにとっては大事ではないことばかり書かれた美しい抜け殻。何度も読んだページをめくりながら、わたしも自分にとっての大事なことを、死ぬまでにきちんと書けるようになりたいと、そう思ってため息を吐く。

*文庫『ここは、おしまいの地』こだま, 講談社, 2020年6月刊行

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