三浦哲郎の掌編小説:その一口の旨みを愉しむ

うまい、という言葉には幾通りもの漢字がある。

〈美味い〉〈旨い〉〈甘い〉。
見た目は異なれど、いずれも何かを口にした際のおいしさに感嘆する言葉だ。
わたしの場合、この三つのなかでもっとも〈うまみ〉を感じるのは〈旨い〉の漢字があてられている時で、この文字を目にするだけで肉魚や出汁などから溢れ出す、まるで絡みつくように猛烈な〈うまみ〉が舌の上に染み渡る。

三浦哲郎の書いた掌編小説を読み直す度、わたしはいつもこの〈旨み〉を口いっぱいに、頭いっぱいに感じながら、「ああ、旨い」と感嘆するのだ。

三浦哲郎が日本文学における掌編の名手であると知ったのは高校三年生の時だった。
自宅から数駅離れた大学受験予備校の現代文の授業で、彼の作品と出逢った。
教えてくれたのは一風変わった名物現代文講師で、斜に構えながらも言動のひとつひとつにチャーミングなユーモアがあり、彼の作成した現代文のテキストは予備校の授業用とは思えない充実ぶりで、そこには彼の好みの作品と大学受験向きの作品がちょうどよいバランスで掲載されていた。

そのテキストに、三浦哲郎の『メリー・ゴー・ラウンド』という掌編が載っていた。舞台になっているのは昭和中期くらいだろうか、年端もいかない少女が主人公。父親に連れられて母親の墓参りに訪れるシーンからはじまり、良い服を着て遊園地や動物園で遊ばせてもらい、海辺のレストランでご馳走を食べさせてもらい、それから切り立った崖へと連れて行かれる。
一読してみれば単なる親子無理心中の物語で、とりたてて目を惹くものではない。けれど不思議なことに、読みすすめていけばいくほどに芳醇な奥行きがひろがっていく。

その数ページの短い世界にわたしはあっというまに魅了された。

本を、とりわけ小説を読む時にひとはおそらく、それぞれ読みに対する好みのポイントをもっている。そうして無意識にその好みのポイントを求めて本のページをめくっていく。

たとえば、見事に伏線を回収していく文章の魔術に絡め取られたいという期待。論理的に計算され尽くした舞台上で巻き起こるSFの、その横断的な娯楽性や批評性を享受したいという思い。現実に起きた事件や出来事を、パラフィン紙のような誰かの視点の薄膜を通して後追いしたいという興味。ここではないどこかの世界へ連れて行ってくれる、幻想性のつよい物語に浸りたいという欲望。

わたしが小説を読む時に求めているポイントが「叙述と描写の〈旨み〉」であるらしいと気づかされたのは、三浦哲郎の作品との出逢いがあったからだった。

数ページのささやかな、淡々とつづく『メリー・ゴー・ラウンド』という掌編がなぜこれほどに魅力的に感じられたのか。
それはきっと、淡々とした人生に挿まれる閃光のような一瞬を、言葉によるデッサンの力だけであまりにも鮮やかに立ち上がらせていた、その手腕に圧倒されたからなのだと思う。

普段から本を読むのが好きであっても、出版されている(現在入手できる)作品をすべて作家読みするということはそうそうない。
三浦哲郎は、わたしがこれまで作家読みをした十数人のなかでもとくに大切なひとりだ。

『白夜を旅する人々』などじっくりした長篇も多く書き、芥川賞を受賞したのは中篇の『忍ぶ川』で、自身の家族の業をモチーフにした作品が多いけれど、三浦哲郎の書いたものはなんといっても、ささやかな日常を鮮やかに切り取った掌編が飛び抜けて旨い。

三浦自身も掌編に対する愛が強いと見えて、《私は、学生時代に小説の習作をはじめたころから、長大な作品よりも隅々にまで目配りのできる短いものの方が自分の性に合っていると思っていた。それで、短篇作家を志し、たとえ一篇でも、二篇でも、よい短篇小説を世に遺したいという願いを持つようになった。その気持はいまも変わらない》と言って、『短篇モザイク』と名づけた掌編シリーズを昭和の終わりから開始した。

『短篇モザイク』シリーズは現在新潮社から文庫と完本の二形態で発行されており、完本のほうは未収録を合わせて62篇。いずれの作品も数分あれば読み切れる長さだ。
三浦は100篇の壮大なモザイク画を目指して紡ぎつづけたけれど、惜しくも完成を見ぬまま十年前に逝去してしまった。

『短篇モザイク』シリーズに掲載されている作品は(どうしてもカタカナや漢数字である必要があるものを除き)ほぼすべてひらがなで題されている。
『短篇モザイク』の世界では、そのひらがなの含む奥行きそのものであるかのような、余白のありながらあまりにも豊かな、ひじょうに練れた〈旨み〉のある文章が、ある一瞬の物語をつぎからつぎへと織り上げていく。

掌編・短篇の肝ともいうべき作品の冒頭は、いずれも一切の気の緩みがない。歯ごたえの気持ちいい新鮮な刺身の一口目、あるいは、熱々かりかりの揚げたて天ぷらにかぶりついた時の目を細めるような〈旨み〉と喩えるべきか。

「ください。」
「はい、いらっしゃい。なんにしましょう。」
「かきあげ、一つ。」

そんなやりとりから物語のはじまる「かきあげ」はわたしのお気に入りの掌編のひとつである。

肩に入れ墨のあるかつては粗野な船乗りだったやもめの老人が、老いた日々のつましい楽しみとして、駅前の天ぷら屋で八十円の桜えびと玉葱のかきあげを買う。
蝋引きの熱々の包みを手のひらに乗せ、こう熱いところへ生醤油を垂らして炊きたての御飯に乗せる、こたえられない、とやに下がりつつ、以前晩酌が欠かせなかった頃は何本か肴を買っていた破れ団扇の焼鳥屋を横目に、狭苦しいアパートへと帰宅する。
アパートの部屋の前へ戻ってくると、そこには不詳の娘の生んだたったひとりの孫娘が、老人へのおみやげである一升瓶をリュックに入れて座り込んでいた。孫娘は、母にお祖父ちゃんのところへ行きなさいと追い立てられてきたと言う。老人は、尻軽な娘が新しい男とゆっくり夜を愉しむためにこの子を追い出したのだと思い至り、かきあげのためのひそかな一日になるはずが孫娘を迎え入れるはめになり、そしてその夜、なんと小さな殺人を犯してしまう。

三浦哲郎は、短い物語のなかに生々しい色恋の一瞬をいつもさりげなく差し込む。その手際がすばらしい。

この「かきあげ」も老人のかつての荒々しい色や娘の堂々とは見せられない恋の像を醸し出しており、ほかにも『短篇モザイク』シリーズのわたしの好きな作品では、夫婦間の言葉の綾の、その一瞬の行き違いや恐ろしさが二羽の小鳥によって浮かび上がる「うそ」、田舎の山奥に建つ遊郭に仕事で通う少年の淡い恋と、そこで取り囲まれた茸の群生を描く「あわたけ」、講演を行った旅先のビジネスホテルで脂っこい洋定食に舌鼓を打ちつつ、隣席の老夫婦が昨夜の交合の話をしているのに耳を澄ます「ブレックファースト」など、奇妙に生っぽい色のシーンが何のこともなく当たり前に差し挿まれる。

とりわけ高齢者の性の色や、田舎の若者の尾籠な噂、過ぎた日の叶わなかった恋の光景が多い。三浦哲郎の描く性の当たり前さはとてもささやかで、けれど人間にとって生と性は、死ぬその日までずっと、どうしたって切り離せない存在であるのだとあらためて思わせてくれるのが心地よく、凛としていてすてきだ。

彼の書いた掌編や短篇を書評で紹介するのはむずかしい。
それは彼の作品の魅力が、なにより文章と描写の〈旨み〉であるからだ。いくらあらすじを紹介しても彼の作品を紹介したことにはならない、本をひらき、そこにしたためられた彼の練れた文章を、のどごしで感じてもらわなければまったく意味がない。

一杯の猪口に入れてもらった熱々のお出汁を、はいな試してみて、一口。と小料理屋のカウンターから差し出され、それを「お、ありがとう」と、くいっと飲み干す。その一瞬の〈旨み〉。
それが三浦哲郎の掌編の〈旨み〉の感じ方であるのだと思う。

三浦哲郎の掌編や短篇は現代文の試験問題としても頻繁に使用される。

巧みな隠喩で構成され、簡潔な文章ながら豊富な語彙に満ちた物語。開け放たれた読後の解釈や余韻など、確かに試験問題にはふさわしい。
数ページのほんの一瞬で、それを見てしまった読者にあらゆる解釈を託しつつ、けれど正しい解釈の道すじが確かに光り見えている。

旨く、そしてまた巧い。

多様な読みをもたらしてくれながら誤読の余地を与えない彼の見事な手腕は、日本の小説家のなかでも一等級だ。
小説のもつ〈奥行き〉の豊かさと、描写の底力。
究極まで研ぎ澄まされた描写は、本から目をあげたわたしたちの視点を一瞬にして変えてしまう異様な力をもつ。描写し、間接的に光景をあぶり出すことによってしか生まれない感情がこの世界にはあるのだと、三浦哲郎の掌編小説を読み返す度にわたしは思う。

彼がこの世界のなにげなさを温かく切り取ったこの『短篇モザイク』シリーズを、これからもきっと、ずっとずっと、ふとした時に読み、それからわたしは自分の視点を変えつづけていくのだろう。
わたしが現代文のテキストで偶然出逢い、そしてのめり込んでしまったように、これからもそうして彼の作品と思いがけず出逢うひとがいるだろう。

彼が完成できなかった残りのモザイクのピースは、読者のわたしたちの目に託されているのかもしれない。

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