餅井アンナ『へんしん不要』書評:ご自愛のままに、これだけで十分なのに
打たれ弱いぶんだけ打たれ強い。と、むかしから自分に対して思っていたのだけれど、ここ数年でちょっとその様子が変わってきた。
20代の青春をやや過ぎて性格の脂がいい感じに抜けてきた一方で、何かしらの出来事に翻弄されたあとに寝込む時間が増えた。体力の若さがなくなってきたぶんだけメンタルの受け皿が小さくなったのかもしれない。
そんなことを周りにこぼしてみると大体の友だちも似たような感じだった。類は友を呼ぶわけだからもともと自分の周りに自分と似た性質の人間が集まっているだけともいえるし、似た世界をいつも眺めているからなのかなとも思う。
よく似た高さの舞台の上に立って日々の暮らしを眺め下ろしながら、友だちもわたしも片手にスマホを握りしめ、15分に一度はその小さな世界をも同時に眺めおろす。
世界も日々も、ふたつの視界で混ざり合ってめまぐるしく流れ過ぎていく。
まるで奔流のなかの小石みたいにわたしたちはその流れに打たれ、毎日ほんの少しずつ、小さな小さな傷が溜まっていく。
致命的な傷でなければ一応の生活は行える。呼吸と食事と睡眠と、それからそれを担保するためのお金を労働で稼ぐこと。疲弊したぼんやりした意識で、傷だらけの小石をひとつずつ積み上げてはその日一日をぶじに終える。そんな自分に安堵する。そのくりかえし。
それでも後ろから突風が吹けば、あるいは誰かに指で突かれれば、なんとか積み上げていた小石の塔はあっというまに崩れ落ちて、わたしの心もぽっきりと折れる。
こんにちは、調子はどうですか。挨拶代わりに「元気ですか」と聞かれると、ちょっと言葉に詰まってしまう。私はもうずっとそんな感じです。だから、ここでは元気の有無は聞かないことにします。元気があってもなくても、調子が良くても悪くても、あなたがこのお便りを読んでくれていることが嬉しい。今お便りを開いているそこは、どんな場所ですか? 自分のお部屋でしょうか。飲み物を出してくれるようなお店でしょうか。それとも、何かの乗り物の中でしょうか。どこであっても、そこが居心地の良い居場所であったらいいなと思います。ちなみに私はこのお便りを、散らかった部屋の、さらに散らかったベッドの上で書いています。
餅井アンナの初単著『へんしん不要』は、二年にわたる長い長い〈あなたへのお便り〉の本であり、また、そのお便りをしたためるその時その時の自分自身についての記録帳である。
お便りはいつもささやかな気遣いから紡ぎはじめられる。
こんにちは、調子はどうですか。こんにちは、心穏やかに過ごせていますか。こんにちは、毎日寒さが応えますね。お部屋は暖かいですか?
この穏やかな最初の一行が目に映ると、なぜだか視界のこわばりが溶けていく。別の水槽にいた魚を新しい水槽に移す時、少しずつふたつの水を慣らしていくその光景のように、〈私〉と〈あなた〉の温度調整がされていく。〈私〉と〈あなた〉の水の温度が馴染んできたら、それから〈私〉の近頃の様子が記されて、わたしたち読者(あなた)は、〈私〉が今どんなふうに弱っているかを覗き見ていくことになる。
そう、この『へんしん不要』に記された著者の日常は基本的にいつだって弱々しい。
ひとりの人間の心がぽっきりと折れる様が、あらゆる角度から描かれる。病気なのか体質なのか性格なのか、はっきりしたことは分からないし、日々たゆたっている抑鬱状態が異常であると言えないほど、当たり前にそこにある。多くを家のなかで過ごし、実家から援助を受けつつほんの少し力を出して外でのアルバイトを週に数日やってみる。ものを書く仕事のほうは出来たり出来なかったりの、短期集中と牛歩のペースに翻弄される。ちょっとした世間の悪いニュースに体調をくずし、一旦寝込めばなかなか起き上がれない。
夏は熱中症気味に弱り、秋はどん底だった学生時代の自分の影に襲われて弱り、冬は年始のブーストが切れるのが早すぎる自分に呆然として弱り、では春が近づき温かくなれば復活するのかといえばそうではなくて、春は春で、途端に一斉に動き出す生命力の強さにやられてあっというまに弱る。
書かれている著者の弱々しい日常はひとつひとつに目を凝らしてみれば切実でシリアスなものであるのに、この本の「この本はどのページを開いても100%絶対に調子が悪い」という状況があまりにもコミカルで、つい「ふふ」と笑いがこぼれてしまうのがふしぎだ。
そのコミカルさこそがこの本の、この長い長いお便りの魅力でもある。
もともとわたしは『へんしん不要』が出版されるずっと前、著者が学生時代に発行していたミニコミ誌『食に淫する』からのファンで、そこからずっと著者の文章や写真を追っていた。共通の知人がいたのがきっかけといえばきっかけだったが、『食に淫する』を知ったのはTwitterで、この『へんしん不要』のweb連載を知って更新される度に読んでいたのもTwitterの著者のつぶやきを通してだった。
webを通しての情報はあまりにも速く、刺激が強い。『へんしん不要』が連載されていたこの二年で、一体いくつの情報と出来事が燃え、わたしたちの心の調子に影響を与えてきたか。webの情報のうねりに流され、小さな傷をつけられていくことが当たり前になった今、『へんしん不要』に記された著者の調子の悪さは「生きづらさ」と特記するべきものではなく、「生きづらさ」として慰撫するものでも、また敬遠するものでもない。ただこのドミノ倒しのような調子の悪さが現代では誰にでも共有可能であるということを、シンプルに示し、したためているのだ。
お便りであるからこそ、webで連載されていた頃の『へんしん不要』は当時のニュースや出来事、季節の温度感が即時反映されていた。
webで、とりわけTwitterで情報の流れに翻弄され即時ダメージを受けてしまうことについて著者は即時反応して、二年の間で数度文章を寄せていた。webが、Twitterがあったからこそ出会えた著者と作品だったけれど、それゆえに浮かび上がってしまうwebの事実もあった。
何かが激しく燃えているとき、ネット上には未加工の強い感情があふれがちになる。思ったことを秒速で、それも現実の自分からは切り離した形で発信してしまえるツールだから仕方がないのかもしれない。叫ぶように、怒鳴るように、吐き捨てるようにして投稿される文字列。感情を直に浴びてしまっているようで、体も心も消耗しきってしまう。「そんなにしんどそうなのに、なんでツイッター見ちゃうの?」と聞かれることがある。どうしてだろう。たぶん「知らないでいること」が怖いのだ。あるいは「知らずに済んでいること」が。
弱ってしまうのがわかりきっているのに開いてしまうwebの文字渦。生来の調子の悪さにより現実世界での刺激や出会いが苦手だからこそ、ネットであれば安らかな家にいながら多数の言葉を目にすることができる。しかし便利な一方で、便利でありすぎるからこそ、webの世界には限界がない。
会いに行けない人たちの声を聞くことができる。普段は押し殺している声を他人に届けることができる。生身の肉体や、現実の社会が持つ「限界」を、ネットは超えさせてくれる。私はこれを利点だと思っていたけれど、それは同時に「超えてしまえる」ということでもある。本当はあるはずの限界を無視できてしまう。徹夜明けのナチュラルハイみたいに。それはちょっと怖いことだ、と今さら思った。
この間も友達の誘いを断った。「最近少し疲れてるんだ」と言って、その日は休んだ。きっと出かけていたら今頃また寝込んでいただろう。気持ちだけでは体を動かすことができない。歯がゆいけれど、肉体というストッパーがあることが、かえって助けになっているのかもしれなかった。どうしてこれが分からなかったんだろう。
肉体という限界のもつ強み。弱々しい心体の持ち主であるがために著者が気づけたその事実に、わたしは虚をつかれた思いがした。
この『へんしん不要』も、20通以上あるお便りのなかで、〈あなた〉の読める回だけを読んでいいのだ。そう言われた気がして、本を開きながら安堵した。
二年の連載のうち、ここには〈あなた〉の気持ちが今もなおマイナスに引きずられてしまうようなニュースの跡が記されていたり、〈あなた〉の感情をゆさぶるような季節の匂いが描かれる。けれどそれは薄目で読み過ぎたって、そもそも読まなくたっていい。「でもそれでいい。会って話が聴ける程度の余裕ができたら、自分の判断で見に行けばいい。電話だってできる。頭の中で文字が騒いでどうしようもないときは、インスタグラムでかわいい動物や、化粧の仕方を見せてくれる人の動画を眺める」そんなふうに、読める時がくればこのお便りを読めばいい。
そんなふうに、著者は何度も何度も、読み手の浸かっている水の温度が冷たくなり過ぎないように、熱くなり過ぎないように、丁寧に目配せを送ってくれる。
その目配せが、弱々しい言葉のなかでひとつの光のように凛として、頼もしい。
実際この本はわたしにとってvlogのように軽やかだ。気負いなく読めるお便り。射し込む陽光が徐々に部屋の床を移動していくように進んでいく、ひとりの人間の静かでゆっくりとした日常。BASIの曲を流しながら読むと、愛の溢れ方が似ているので心地いい。
webでは指が先へ先へとスクロールしていく速度に目が追いていくけれど、本では目の読むスピードに合わせて指が追いていき、確実にページをめくっていく。もう何もできなくなった日、暗い部屋のベッドでひたすらYouTubeを眺める時のように、調子が悪くなった時もこの本なら読めるかもしれない。
けれど、その時にあまりにも引きずられそうなお便りがあれば、べつのお便りを眺めればいい。だって、へんしんは不要。わたしたち〈あなた〉はただただ受け取りたい言葉を受け取り、なにより自分の暮らしを大切にしながら、日々溜まっていく小さな傷が少しでも増えないようにそっとご自愛してゆけばいいのだ。
*『へんしん不要』餅井アンナ, タバブックス, 2020年10月刊行