もしもあの時、麦があの本を読んで何かを感じていたのなら/『茄子の輝き』と『花束みたいな恋をした』

2021年になって最初に映画館で観た映画は、坂元裕二脚本・土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』だった。

菅田将暉がむかしからずっと大好きなのだ。
だから、とにかく動く菅田将暉が大画面で観られるのならばそれはやっぱり行かなくては、という単純な気持ちで映画館に向かった。

菅田将暉は人気のある俳優だから新作映画が公開されたとなれば、SNSには「あの菅田将暉のあのシーンがよかった」「菅田将暉のあの表情を10000回観たい」などというめろめろの感想が咲き乱れるのだろう(『溺れるナイフ』の時のように)と思っていた。

ところが封切りから数日、なんだかちょっとSNSの様子がおかしい。

ちょっとというか、わたしのTwitter画面だけでも日々「固有名詞の絨毯爆撃による共感性羞恥で死にそう」「完全にホラー映画だった」「資本主義の犬コロと化した菅田将暉を見ておったまげた」「うつろな瞳でもうパズドラしかできん菅田将暉、今までの菅田将暉でもっとも俺に近い。同じ人間だった」などの奇妙な感想がいくつもいくつも流れてきて、それは作品それ自体の賛否を口にするのとは少し雰囲気が違っており、そもそも賛否を口にするという行為のその手前で、誰も彼もが語彙をなくして身動きがとれなくなり、ただただ唸り声をあげているみたいだった。

物語はとてもシンプルだ。大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は京王線明大前駅で終電を逃したことで出逢う。たどりついた深夜の喫茶店や始発待ちの居酒屋で文学や映画、お笑いや音楽について話すうちに互いの趣味がぴったり同じであると判明し、あっというまに意気投合しあっというまに恋に落ちる。
大学卒業後、ふたりは駅から30分の多摩川沿いの部屋を借りて同棲。麦はイラストレーター、絹はアイスクリーム屋で働くフリーターとなるが、麦は単価の舐められつづけるイラスト仕事に将来を望めず、「絹とずっと楽しく暮らすため」に就職を決意、絹も麦と合わせるように、より現実的な職に就く。
愛するものに囲まれて満たされていた暮らしがもっともっと幸福に続いていくんだろうとふたりともが思っていた。
けれど就職という生活の変化をきっかけに、ふたりは少しずつすれ違っていく。

エンドロールが終わりシアター内が明るくなると、さまざまなひとがうまく感想を言語化できなくて身をよじっていたあのSNSの唸り声と同じものを、確かに自分も吐き出していてびっくりした。まだ映画館も出ていないのに急いでTwitterをひらいて語彙の足らない唸り声をいくつもいくつも投稿してしまった。変に冷静さを欠いた、その感覚がふしぎだった。

なるほどこれは唸らずにはいられない、とても巧みな作品だった。と思ってその日のうちにある程度の唸りや考察をTwitterで吐き出してしまったので衝動のようなものは日が経った今はもうだいぶ落ち着き、とはいえ余韻はずっともやのように残っている。

そんな余韻のもやのなかで、とあるシーンで麦が棄てるように放り投げたあの一冊の本のことが、今なぜだかむくむくと気になりはじめた。

就職後、日々の労働に疲弊してすっかり本や映画などのカルチャーに触れることのなくなった麦。一方、就職後もこれまでと同様に読書や映画鑑賞をたとえ一人になってもこつこつと楽しみつづける絹(楽しみというよりも、ある種の意地のようにも見えたけれど)。
あんなにもふたりで愛していた本や映画や演劇は、しかしその頃にはふたりの喧嘩の種に成り果てて、仲違いばかりが重なっていく。
とある晩、一緒に行く予定だった演劇の約束を反故にして麦は出張を選ぶ。そんな麦に対して絹は最初は激高するけれど、やがてそのやるせなさを飲み込み、喧嘩直前まで読んでいた『茄子の輝き』という小説を麦に手渡そうとする。
「これ、よかったよ。出張に持っていったらいいよ」と、絹は健気に本を渡そうとする。
それなのに疲れ切った麦は、もはや本などという重いものを手にしようともしない。
手にすることもできないのだ。
翌日の出張で社用車を下車する際、麦はまるでゴミを棄てるかのように絹から持たされた『茄子の輝き』を荷室に放り投げ、冷たい顔でバックドアをバタン、と閉じる。

あ。茄子が棄てられた。
と、そのシーンを観た瞬間に相当な衝撃を受けた。
劇中でタイトルや作者の名前は声に出されないものの、茄子のイラストが描かれた茄子色の印象的なその表紙は、現実世界の人間であるこのわたしにもとても馴染みのある一冊だったから、余計に衝撃的だった。

今村夏子、多和田葉子、小山田浩子、堀江敏幸、川上弘美と、劇中ではさまざまな現代作家の名前が羅列され、さまざまな本の背表紙のシルエットがカメラに捉えられるけれども、あれほど長い時間スクリーンに――シーンをまたいでなお――映されていた本は、滝口悠生『茄子の輝き』だけだったと憶えている。

『茄子の輝き』はまるで、絹の言葉そのものを託されたかのような映され方をしていた。

『茄子の輝き』は、仕事をめぐる小説であり、またその仕事の場である〈カルタ企画〉という小さな会社の周囲にぐるぐると立ち現れる思い出をめぐる小説だ。〈カルタ企画〉に勤める市瀬という男の、二十代後半から中年にさしかかる日々の断片が、6つの連作で織りあげられる。

1話目では〈カルタ企画〉の社内会議の様子が淡々と綴られる。10人しかいない小さな会社の、しかも各人がほとんど自由に勤務するなかで、社員の連帯の機会をつくるものとして開催される月曜会議の光景。その会議で、〈正午に全員分のお茶を用意して配膳するお茶汲み当番〉に関しての喧々諤々とした――しかしながら、のほほんとした――やりとりが、ただただひたすら描かれるのだ。

劇中では果たして麦が『茄子の輝き』を開いたのか開いていないのかさえ提示されていないけれど、おそらく麦は『茄子の輝き』に収録されたこの1話の途中まで読んで、それ以降は読むのをやめて放り投げてしまったのではないか、とわたしは思う。
プライベートに時間を割けないハードな会社に就職してしまい、ハードな日々に追われて仕事人間へと変わらざるをえなかった麦にとって、『茄子の輝き』のこの1話目はあまりにも酷だろうと思ったのだ。

重要な役割を任されはじめ仕事に前のめりになってきた麦にとって、お茶汲み当番問題をめぐる〈カルタ企画〉の光景はあまりにもぬるく、甘ったれに感じられるはずだ。仕事を舐めんな、という麦の声がきこえそうなほどに、〈カルタ企画〉の面々はぬるく甘ったれた事物に対してあまりにも切実に向き合う。
小説の途中では市瀬と市瀬の同僚の鶴上さんが真剣に提案したお茶汲み当番表が「表」として実際に挿入されたりもするが、それを目にした麦は一体どんな気持ちになっただろうか。
 会社小説、それも中小企業の小説だから絹は僕の出張のお供に薦めたのか、あいつ何のつもりだ、と憤りさえしたのかもしれないし、1話目の最後の一行を目にする前に、きっと麦は『茄子の輝き』の世界から離れてしまったのかもしれない。

けれど、と思う。
けれどきっと、絹が麦に読んでほしかったのは『茄子の輝き』に収録された2話目以降の物語なのだ。

2話目以降、『茄子の輝き』の焦点は、市瀬のなかに渦巻くいくつもの思い出に絞られていく(あるいは拡散されていく)。
市瀬は三年前に離婚した伊知子という元妻のことをずっと引きずっている。
結婚していた頃、市瀬と伊知子には経済的な余裕は一切なかったけれど、毎日の暮らしのささやかさを楽しみ、格安バスや鈍行を駆使してあてのない島根旅行などもした。その時の光景を三年後の市瀬はまるで今ここにあるかのように思い出し、思い出すことそのものの愛おしさを思い出す。

同じ時間、同じ場所で違うものを見て、違う記憶をあとから夫婦で振り返る。するとそこにどちらのものでもない、言わば夫婦の記憶、のようなものが生まれる。旅行に限らず、そういう夫婦の日々の記憶が、ふたりの時間、ふたりの過去、離れがたくあらしめる愛着のようなものを形成していく。たしかにその感触ならあったはずだが、今ではもう取り戻せない。電車のなかで眠っている妻の顔さえ、写真に写ったまま硬直して動かない。

三年後の市瀬はひとり住まいのアパートの床に旅行中の写真を数百枚と並べ、まだ思い出すべきことがたくさんある、たくさんの妻がいる、全部よく知っている、と伊知子のすがたを今ここに愛おしみ続ける。離婚から年月が経つにつれて次第に動かずしゃべらなくなっていく伊知子をけして忘れないよう、週に何度か帰宅後、アパートの押入れ上下段いっぱいに詰まっている写真や日記を広げて追憶作業に耽溺する。

元妻の思い出と同様に、市瀬は〈カルタ企画〉の面々に対しても、思い出すことを思い出す。2話目、3話目と読みすすめていくと「お茶汲み当番の月曜会議」からそう年月の経たないうちに〈カルタ企画〉が倒産する運命であることが明らかになり、物語内のストレートな時間軸において現在進行形で〈カルタ企画〉で働いている市瀬は、しかし同時に、別の職に就いている未来の市瀬の視点に見下ろされてもいて、自分自身をも思い出す対象に変化させていることが判明する。

思い出には、いつだってディテールと場所がまとわりつく。
おそらくもう会うことはない〈カルタ企画〉の同僚たち。〈カルタ企画〉で働いた日々に、よく通っていた喫茶店や飲み屋の内装、食べ物の色、音、喧騒。できるならすべて憶えておきたい光景と事柄。

『茄子の輝き』では場所という存在への愛着も深い。倒産した〈カルタ企画〉の入っていたビルは数年後にすっかり更地となる。その場所を懐かしく訪れた未来の市瀬はもう何も残っていないというその事実に吃驚しつつも、しかし、そのビルの周辺を彷徨していた過去の自分の目となり足となり、永遠に近い――けれどまた同時に、思い出のなかの元妻のようにいつかは動かなくなり、薄らいで茫洋と消えてしまう――場所として、今ここに浮かび上がらせることができるのだと、力強く感じ取りもする。

そんな市瀬のささやかな発見は、『花束みたいな恋をした』での、Googleストリートビューの二度の奇跡に舞い上がる麦の表情と重なるように思う。

『茄子の輝き』に収められた後半の物語では、〈カルタ企画〉の日々から随分遠のいて33歳になった市瀬が、終電を逃した見知らぬ女とひょんなことから居酒屋で出逢い、自宅に泊める羽目になる。
自宅で飲み直しながら男女ふたりでだらだら語り合い眠気にまどろんでいく様子は、どこか麦と絹の最初の夜を彷彿とさせる。『茄子の輝き』のこのシーンを読んだ絹は、きっと自分たちの出逢いと重ねずにはいられなかっただろう。
ここだけではない。市瀬と伊知子の島根旅行のシーンも、そこで撮ったたくさんの写真のシーンも、馴染んだ川や街を思い出すことで自分たち自身こそが思い出されていくその感覚も、市瀬と伊知子の〈別れた理由らしきものはあったが、それは理由とは呼べないような形〉で離婚してしまった経緯についても、絹は自分と麦の存在につよくつよく重ねたはずだ。

出張のいざこざで喧嘩する数十分前、麦の帰宅を待って夜風に吹かれながら、ひとりソファで『茄子の輝き』を読み終え、ふう、とため息を吐く絹の後ろすがたが、わたしの瞳に今もまだこびりついて離れない。

あの時きっと絹は、何かが思い出されることで自分たちもまた同時に思い出し思い出されるのだという『茄子の輝き』の感覚に身を委ね、そしてまた、自分の心の奥にある麦への澱んだ想いを思い出していた。
「今村夏子の『ピクニック』を読んでも何も感じない人なんだと思うよ」と自然に口にしてしまう絹のことだから、あのタイミングで読んだ『茄子の輝き』に並々ならぬ想いを託したにちがいないと、わたしはどうしても思ってしまうのだ。

とはいえ、絹の想いはそう単純なものでもなかろうとも思う。

『茄子の輝き』はラストに近づくにつれ、思い出すことから忘れることへとゆっくり焦点が移っていく。終電を逃して市瀬と出逢い、これから友だちとなるのか恋人となるのかもわからない27歳のオノという軽やかな女性は、市瀬にとって、思い出すことから忘れること、そこから別の何かを紡いでいくこと、その三つのあいだで複雑に絡みあった硬い結び目をほどくような新しい風だ。
そんなオノの登場と、オノの登場がきっかけで明かされる〈カルタ企画〉の元同僚・千絵ちゃんの退職後の様子に、新しい千絵ちゃんに衝き動かされるようにアルバムの写真の顔を貼り替える市瀬の様子に、絹は現在の自分と麦に残された最後の可能性を見出したのかもしれないし、その最後の可能性をお薦めの本という形でささやかに麦に伝えたかったのかもしれない。

もしも出張に行った麦が『茄子の輝き』を読んで〈何かを感じていた〉ならば、『花束みたいな恋をした』のふたりの恋の結末は果たして変わっていただろうか。

いや、きっと変わってはいなかっただろう。

しかし、もしもあの時、麦が『茄子の輝き』を最後まで読み通してそこに〈何かを感じていた〉ならば、麦から絹へ向ける別れの視線も、最後のファミレスで見かけた過去の自分たちとそっくりな若いカップルへの想いも、その時に零した涙の感覚も、映画のラストとはほんの少し軸の異なったものになっていたのかもしれないと思う。
それはまるで、『茄子の輝き』のなかでいく筋も錯綜する、夥しい並行世界の思い出たちのように。

「今村夏子の『ピクニック』を読んでも何も感じない人なんだと思うよ」という絹の言葉には一見〈自分たちに対する無意識の特権意識=ふつうの人間への蔑み〉が含まれているようにも感じられもする。
けれど、中盤に『茄子の輝き』という一冊を挿むことにより、〈本を読んで何も感じない=何かを感じる〉というその言葉に、じつは蔑みとはまた別の一面もあるのだと知れるのではないか。

とはいえ覆水盆に返らず、棄てられた茄子はもう戻ってはこない。麦が本を手に取れなくなる前に絹は『茄子の輝き』を渡せたらよかったけれど、その時の麦に『茄子の輝き』を渡しても何の効果もなかっただろうし、そもそも絹にとって、じんわりとため息を吐くほどに「よかった」と心から思えたのは、ふたりの心が離れはじめてしまったがゆえなのかもしれない。

*『茄子の輝き』滝口悠生, 新潮社, 2017年6月刊行
*『花束みたいな恋をした』坂元裕二脚本・土井裕泰監督, 2021年公開

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