朝倉かすみ『植物たち』:生活と小説は植物たちによって紡がれる

どうして書き手たち、とりわけ日本の書き手たちは、植物をモチーフにした物語を生み出したがるのか。

いつからかそんな疑問をもっていた。

この国の最初のほうの姫君はたしかきらきら光る竹の根もとから生まれてきたし、かの文豪の十夜とつづくあの夢物語の、その第一夜は百年経ってようやく咲いた百合と女の話だった。
苔と共生する少女の奇妙な第七官界巡りの話もあれば、殺されてしまうのはいつも必ず桜の森の満開の下で、時代がさらに現代に近くなれば植物をモチーフとした日本の物語は数えるのも不可能なほどに夥しく、図書館や書店の通路でふと立ち止まってみれば、そこ此処の本の隙間から植物たちの気配がいつだって染み出している。

かつて大学の創作学科に通っていた頃、いくつかの短篇小説を課題として書かされて授業の際に学生同士で作品を読み合ったのだけれど、ふしぎなことに学生たちが提出してきた作品の多くが植物と関連した物語だった。
書き慣れていない幼い手先が生み出す植物の物語はそのほとんどが正直読むに耐えない小説だったものの(わたしが書いたものも例外でなく)、空想の植物から滴り落ちる青々とした魅力に手を伸ばさずにはいられない、そんな奇妙な欲望は、これまで多くの植物を物語にしてきたプロの作家たちのそれと、おそらくまったく同じであったのではないかと思う。

植物はそれぞれ個性がつよいからストーリーやキャラクターに重ねやすい。
そして植物のもつ鬱蒼とした気配は、それだけで物語に奥行きをもたらしてくれる。しっとりと水気を帯びた葉や花びらの描写があれば、どんな場面であれ途端に潤いがうまれる。
文学と植物は相性がいい。

ところで、この二カ月の自粛期間中にわたしは自律神経の調子をくずしてしまい、過眠がひどくなっていた。

四月の半ばに週に三日の在宅が決まり、週末も外出自粛を言い渡されていたために1Kの部屋にこもりきり。それで生活リズムが一気に乱れ、明け方の就寝と際限ない昼寝をくりかえしていたらいつのまにか一日二十時間近く寝ないと生きられない身体になってしまっていた。
過眠癖は幼い頃からあって、とくに中高生の頃はあまりにもひどかったので、今回のような事態になっても別段あわてはしなかったものの、外部を完全にシャットアウトして昏々と眠りつづけていると次第に自分の人間のかたちを思い出せなくなりはじめ、自粛解除後もこの状態のままだったらひじょうにまずい。

日々部屋にこもっているとしぜんと巣作りに意識が向いた。

もともと植物は読むのも育てるのも好きだったけれど、五月のある日に突然深いスイッチが入って、いきなり四鉢も部屋に観葉植物を増やしてしまった。
いつも買っている質の高いネット通販の花屋では届くのに時間がかかってしまうから、なるべくひとの少ない時間を選んで自転車でホームセンターへ行き、薬が切れてしまった人間みたいに焦点の合っていない目で植物売り場を歩き回り、あわてて買い物かごに目についたものを放り込んだ。
今すぐに、家に植物がもっともっとほしくてほしくて我慢ならなかったのだ。
連れて帰ったあとは部屋に飾り棚をこしらえ、ちょうどいい日差しの日にせっせと植え替えをし、夜になればベランダから取り込んだ部屋じゅうの緑をぼんやり眺めて幸福な気持ちに浸った。

過眠でふやけてしまった頭と身体の重みに耐えられずベッドに寝転がって部屋の植物たちを観察していると、眠りに支配されている自分と、半睡状態で黙って葉を繁らせている植物たちがとても近しく感じられてなぜだかほっとした。
移動や仕事を制限されてひたすら家にこもり眠りつづけている今の自分は、きっとこの観葉植物たちと同じなのだ。
そう思えば安心して目をつむることができるのだった。

朝倉かすみの『植物たち』という短篇集では、さまざまな植物の生態に重ねられた人間たちの奇妙な物語が描かれている。

苔のように年老いたおばあさんの家に、精気を運ぶように優しく穏やかに寄生する、ビカクシダみたいな若い男の子。
古びたギャラリー付きの一戸建てに終の住処を得た老人と、そこにわらわらと住み着き、ホテイアオイみたいに妊娠して大繁殖していく少女たち。
世界じゅうで親しまれ、さまざまな名前で呼ばれるひなげしの花、ポピーやコクリコ、アマポーラ、ウニッコ、それらを自分のイマジナリーフレンドとして頭のなかで人間化させ、幼い頃から愛おしんでいる女と、その娘。
日陰をなにより好むシッポゴケのような誘拐犯の女。
植物の生態そのままの(けれど、ちょっとした驚きやオリジナルで味付けされている)物語やキャラクターは、やはり小説と植物の相性の良さを感じさせずにはいられない。

なかでも最後に配されている「趣味は園芸」という少し長めの作品がわたしはこの本のなかで一番好きだ。

主人公はアラサーの女〈わたし〉。短大を出て就職もせずふらふらと短期バイトをくりかえしながら実家で暮らしている。友だちは少なそうで、とにかく仕事というものそれ自体にどうしても馴染むことができず、働いては休み、働いては辞めてばかりが積み重なっていく人生。
初めはそんな生活しかできないみっともない自分をそれなりに楽しんでいたものの、やがて心身を病んで鬱で入院し、二十七歳でようやく会社事務の定職に就く。

成長点が低いためにくりかえし刈られても何度でも新しい葉を出すスズメノカタビラに重ねられた主人公が、低収入なバイト生活や読書に耽るモラトリアムを経てようやく定職に就き、給料日をハレの日とした人間らしい一カ月の生活サイクルを少しずつ培っていく様に、読む度わたしはあまりにも感情移入してしまう。

退勤後にファッションビルや本屋を覗くささやかな楽しみ。二日ある休日のうち、一日目は誰とも会わず寝たり起きたりの何もしない〈ひとりの時間〉の日、二日目は部屋の掃除と洗濯。ひとりでいる時間による自分の回復。
けれどそのきちんとした生活をつづけていくうちに、なぜなのか不安と閉塞感にじわじわと襲われていくこと。

ある時〈わたし〉はなんとなく結婚について考えはじめる。けれど結婚運向上のために占いの本を立ち読みしていたらいつのまにか結婚運より金運向上だ、と思い立ち、「西に黄色のものを置くとよい。それが花ならなおけっこう」という風水の本のアドバイスに従って帰りに黄色のバラを買う。
何度か花屋に通ううち、バラはすぐに枯れてコスパが悪いと気がつき、同じく黄色であるプリムラの鉢植えを買った。
それが〈わたし〉の園芸趣味のはじまりとなった。

 次々と花が咲いた。花がらをつむと、新たなつぼみを発見した。やわらかなみどり色の葉も増え、幅広になり、葉脈がくっきりと浮き出、生きている、と実感させられた。水はコップでやっていた。毎日水やりする必要はなかった。土が乾いたら鉢底からあふれるほど水をやってください、と鉢植えについていた説明書にあった。でも、わたしは毎日水やりをしたかった。水だけじゃなく、毎日、何かしら世話をしたかった。

プリムラの鉢を手に入れたことをきっかけに、〈わたし〉はある日突然植物への情熱に目覚めてしまう。そして部屋があっというまにプリムラの鉢だらけになる。

 自室の西側の窓の下、縦に据えたカラーボックス三個の上を花置き場としていた。帰宅して、さっそく、プリムラ大、プリムラ小、プリムラ大と、カラーボックス一個につき、一鉢ずつをならべてみた。ちょっと離れてながめてみたら、「まだ置ける」と思った。「花を並べるスペースが余っているではないか」と。わたしは俄然スペースを埋めたくなった。(略)
あくる日も花屋に寄った。三軒、寄った。まず一軒目。デパート一階の高級花屋だ。わたしの望む三種類は揃っていたが、やはり値段が少々高い。途中下車した二軒目の花屋では、黄色のプリムラ大がなかった。一軒目に戻り、黄色のプリムラ大を購入し、再度来ようかと思ったが、よその店で買った花を手にされていたら、お店のひとはいいきもちがしないだろう。きょうはここで山吹色のプリムラ大と黄色のプリムラ小を買い、明日、一軒目で黄色のプリムラ大を買えばいいのではないか。
けれどもわたしは「こうしたい」と思ったらこらえることができないタイプだった。なんとしても、その日のうちに決めてしまいたかった。

この引用箇所を自粛期間中に再読していたらわたしは涙がこぼれそうになってしまった。

この主人公のすがたがあまりにも、自粛中に突然スイッチが入って部屋に観葉植物をさらに増やしてしまった今の自分の行動とまったく同じでいろんな気持ちがこみ上げてきたのだ。
部屋にひとつ植物をふやしたらつぎからつぎに埋めなければいけないと思い込み、猛進し、連れ帰ってきたあとにぼんやりと眺めるその快感。安堵。充足感。
植物が増え、それらを世話することで胸の奥からふわふわと湧き出てくる、ふしぎな高揚感とやさしい希望。
「この子たちを愛し養うのは自分しかいないのだ」と気がつくことで、明日もきちんと会社に行き、働き、わたしはわたしの人生を、生活を、ひとつひとつ紡いでいけるのだというつよい気持ちが生まれてくる。

黄色いプリムラを部屋に置くというささやかな入り口から園芸に入った〈わたし〉はやがてさまざまな色の花を買い、育て、そして物語の最後にはついにカマやクワを握って家庭菜園の一角を開墾しはじめる。
むかしは先行きの見えない〈わたし〉の生活をなじっていた母親も、園芸をはじめた〈わたし〉の成長と変化に目を瞠る。
身体を動かしたり作業をするのが苦手だった〈わたし〉は、花屋で買ってきた植物を育てるうちに雑草としての自分の力を存分に発揮できるようになり、物語の最後に母親が〈わたし〉にかけた優しい言葉は、土からふと顔を上げた時に見える、抜けるような青空みたいに希望に満ち溢れていて胸が詰まる。

植物をモチーフにした物語は、植物という存在がもつ寡黙さと生命力によって、希望にも絶望にも、そして名前のつけようのない感情にも託しやすい。

過眠の水底に沈みながらこの本を読んでいると、自粛明けの世界が近づいているとのお知らせがあった。  この二カ月、自室の観葉植物そのものになっていたわたしも、じきに「趣味は園芸」の〈わたし〉のように戻れるだろうか。なれるだろうか。
なりたいな、なろう。ならなければならない。だってこの部屋の植物たちを愛し、養っていくのはこの自分しかいないのだから。
と、新入りのネムノキの鉢を眺めてそんなふうに思った。

 

*文庫『植物たち』朝倉かすみ, 徳間書店, 2019年3月刊行

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